小栗康平 手記

老いの自覚

2026/08/30

なにを根拠にして書きたいと思ったのか、そんなことすら自分でもはっきりしていないこうした手記のようなものでも、ブログというメディアでは、だれかがどこかで目にしていてくれるらしい。
アン・ソンギさんが亡くなって、追悼の特集上映が韓国の全州国際映画祭で組まれた。『眠る男』もそこで上映されて、トークに参加した後でのことである。片言の日本語を喋る、たぶん二十代だろうと思われる若い女の子が、ブログを読んでいます、と話しかけてきた。なんとも意外なことだった。日本語で、と聞くと、日本語と韓国語の半々で、とはにかんでいた。今は自動翻訳のアプリケーションを使えば、言語の壁はないに等しくなるらしい。うれしいと思う反面で、なにか怖いような気がしないでもなかった。ネットに載りさえすれば、いっさいが情報となって世界に晒される時代なのだ。AIはすぐにそれらを学習する。

前田英樹さんが「宣長とベルグソン」(筑摩書房)を上梓した。時代も文化も遠く離れている二人のアナロジーを大胆に浮かび上がらせた渾身の一冊である。その「自著を語る」催しがカルチャーセンターであります、と津嘉山誠さんが教えてくれたので、行こうか、と二人してネットで申し込んだ。前田さんとはよく酒を飲んだりしているのだから、私たちがそんなところに顔を出しては嫌がられるかもしれないけれど、ネットで視聴できる環境も用意されていたので、こっちならいいかと思ったのだ。
これまでカルチャーセンターなるところに参加したことはない。「入会金」などを支払うとそれなりの金額になった。それはそれでいいのだけれど、以来、パソコンでグーグルを開くと、そのカルチャーセンターの広告が必ず表示されるようになった。その度に前田さんの粋な和服姿を見せられる。いい写真だけれど、べつに毎日会いたいわけではない(笑)。一度検索したホテルが嫌になるほどネット上で追いかけてくる。それといっしょである。そのしつこさは民放テレビのコマーシャルの比ではもうない。こうしたものの消し方はあるのだろうけれど、いちいちそうするのも面倒で放置している。
悔しいから、悔しいという言い方も逆恨みするようでおかしいけれど、だったらオンラインをやめて教室へ直接聴きに行こうとなった。そう言いながら、私も、数は少ないとしても、こうして手記をネットのこのブログに書いている。

車を止めて降りようとしたら、家のその駐車場のすぐ先で枯れ葉がもぞもぞと動いているように見えて、目を凝らした。茶褐色のガマガエルだった。なんと蛇に咬みつかれていた。
これまでにもエッセイで書いてきていることではあるけれど、ガマガエルは東京であれ、地方であれ、いつどこで見つけても私にとってはみな同じ個体で、「やあ」と声をかけたくなる相手である。一匹で頑張っている。だから「会えば」オレもなんとかやっていると、そう挨拶したくなる。
そうであるのに、そのときは咬みつかれて逃げられないでいるガマガエルを見て、しょうがない、と諦めるような気持を持ってしまったようだった。私は直ぐには車を降りないでいた。今になって思い出してみると、老いを自覚し始めている自身の鈍さをそこにまじまじと見ていた気がしないでもない。
幸いまだ足腰は丈夫で動けているけれど、思考力、記憶力、持続力が弱くなっていることに愕然とすることは度々である。物忘れに振り回されもする。集まりのお誘いが来て返信しようと小箱から葉書を取り出したら、今そこにあったそのお誘いの葉書がもう見当たらない。どこをどう探しても出てこない。仕方なく着信していた番号にショートメールを送った。じつはこういうことなのだ。私は知らない番号の電話には出ない。たまたまその方の番号が登録されてなかった。だから電話では連絡が取れなくて葉書を下さったのだ。そのように二度もお手間をとらせてしまったその葉書を、である。情けないことこの上ない。後日、失せたものはあっけないところから出てくるものだ。茫然自失して、こうなると人間崩壊に近い。
車を降りて、私は枯れ枝を拾って投げた。最初は当たらなくて、二度目のちょっと大き目な枝が当たった。蛇はくわえていた口を離して上を向き、威嚇するように大きく口を開けた。口の中は思いのほか白くて、少し黄色味がかっていた。蛇はヤマカカシである。こちらから執拗に追い詰めたりしなければ向かってくるようなことはしない。注意深くもう一度、枝を投げた。ヤマカカシはガマガエルをあっさりと諦めて反対側の斜面を降りて行った。私はガマガエルをそのままにして家に入ったのだけれどなにか落ち着かず、しばらくして見に行くと、もうガマガエルはいなかった。無事だったかどうかは分からない。

あの人もいない、この人ももういないと、なにかの拍子に不意に思いが襲う。だからと言って改めて備えるようなことはなにもしていないのだけれど、こんな時間の過ごし方でいいのかと焦るような気持ちもないわけではない。頭の中で死者と生者が行き来していて、前に向かう時間より、むしろ後ろのそれに豊かさがあるように感じられ、そこをなんとか新しい映画の時間として捉え直すことが出来ないものか、そう考えるものの、具体化してこない。もうずいぶん時間がたつのに一向に動いてくれない。モノローグすることばかりが募り、被写体としての他者が見えない。

凍った川にルアーを投げている。私はうまく投げられず、何度かして、溶けて水が見えているところに届く。すぐに重いものがかかる。巻くのだが上げられない。私の方が引きずり込まれそうで声を上げるのだけれど、声にならない。
咳き込みながらの、明け方の夢だった。猛烈な孤独感に襲われた。映画はもういいか、という思いがよぎる。初めてのことだ。
いまさら映画を撮れないことを悔やんでもどうにもならない。最初から「撮れること」がそもそも奇跡のようなことだったのだから。
年齢がいって社会的なかかわりが少なくなってきたことで、そよとも風が吹かないようには感じられるけれど、もともと徐々に機が熟して、などと動きが現われるようなことではなかったから、なにも変わっていない。いつかあるかもしれない、ないかもしれない。ない、とは言い切れない。
 
ガマガエルは、のそり、のそりと動く。お願いだから静かにしてくれ、だろう。映画もまた同じである。
近頃は顔つきまでがガマガエルに似てきたかもしれない。苦虫を嚙み潰したように口を「へ」の字に曲げている。これではいけない。口元の筋肉を少し緩めてみる。

小栗康平

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