小栗康平 手記
さて、どうしたものか
2025/06/12
家の近くの細い農道に桑の木が覆いかぶさっていて、この時期になるとその実が道に落ちて車にひかれ、ジャムのようにねばりつく。「ポーランド人はこのジャムが大好きなの」と教えてくれたのはロシア・ポーランド文学者の工藤幸雄さんの奥さん、久代さんだった。久代さんは生涯、化粧品の類を使わず、洗顔は米ぬかで通していていた。根っからの自然派である。お住いだった祖師ヶ谷あたりではなかなか桑の実は手に入らなかったと思うが、ご馳走になったことがある。日向臭いような、独特な野性味がある。お二人とももう亡くなられている。
甘いものが少なかった子供のころ、この濃い赤紫の、ちょっと細長くなった木の実につい手が伸びた。ただ赤痢が流行っていた時期だったからなのか、親からは食べてはいけないと言われていた。しかし子供は怖いもの知らずである。家に帰ると食ったかと問われれば、食っていない、なら口を開けろ、でピシャリと叩かれた。口のなかが青黒くなっていて、誰が見ても一目瞭然、すぐにばれてしまうのだ。郷里の群馬は養蚕県だったので、桑の木はいたるところにあった。でもジャムにしてもらった記憶がない。ジャムを必要とするような食生活そのものがなかったのかもしれない。
食べ物は記憶とよく結びついているから、その共有がないとよろこびは半減する。幼年期に野原で遊んだことのなかったカミさんは、桑の実のジャムを作ろうと誘ってものってこない。なにも「そんなもの」まで食べなくても、が実感なのだ。一人で農道まで桑の実を採取に行ったりはしたが、どうも様(さま)としてよろしくないのか、ジャムになったのは一度だけで、続かなかった。
その桑の木が、実生で庭に生えた。ただそれが桑の木なのか楮(こうぞ)の木なのかよく分からない。同じ桑の仲間である。今年、その木に実がついた。桑だった。家で採るのだから誰にも文句は言われない。心置きなく摘んで、自分で桑の実のジャムを作ろうと思っている。
楮は和紙の原料になるもので、雑木林の際などによく見かける。ところが思い出してみると、楮の実を食べたことがない。調べてみたら、甘さはこちらの方が上のようで、形状も丸々としてルビーのようでもあり、おいしそうである。楮は雌雄別株でそれがいっしょに生えていないと実にならないらしい。だからなのか、これまでその実をあまり見かけなかった。そう分かると、今度は楮の実を探す気になっている。
映画の専門誌を読まなくなって久しい。定期購読していた雑誌もなくはなかったが、積み上げられたそれらは果たして資料として残しておくようなものなのかどうか、判断に迷っているありさまである。
それでも週に一度程度は新聞に載る映画の紹介記事やインタビュー、映画評らしきものは目に入ってくる。新聞の役割は世の中で起きていることを伝えることだろうから、どんなひどい時代になっても、なんとかいいものを見つけて紹介しようとする。若い才能を見出すのも役目だ。ただその書きぶりが、公器としての自信からなのか、いい、悪い、の判断はこちらで分かっています、といったふうになりがちで、ときには映画とは何かと書き手が自身を問い返すような記事も読みたいのだが、あまりお目にかからない。読後に残るのは、逆に現実追従ともとれる嫌な感じである。
ジャ・ジャンクーの新作『新世紀ロマンティクス』を見た。私は九十七年か八年にプサン映画祭で、彼の『一瞬の夢』を見ているから、知ってから四半世紀になる。『一瞬の夢』は北京電影学院の卒業制作だったらしく、十六ミリで撮られた粗末な体裁だったが、チェン・カイコーのデビュー作『黄色い大地』などとは違って、もっともらしいハッタリは微塵もなく、田舎臭い町の、田舎臭いワルの青春映画で、中国の地方から生まれ出てきた「根おい」の映画、と言ってみたくなる作品だった。プサン映画祭はこの時からコンペ部門が始まり、たまたま私も審査員の一人に入っていて、グランプリが満票で決まった。
以来、ジャ・ジャンクーの映画はみな見てきている。作品の本数が重なるたびに、映画はよくなっていくかと言えば、一般的に言ってもこれがなかなか難しい。むしろ逆のケースが多いかもしれない。興行の成否もあるだろうし、当の本人が映画を分かってきたように思えて堕落することもある。二作目までは間違いなくその人のものなのだが。
ジャ・ジャンクーの映画はどうだったろうか。見続けてきたのだから惹かれて、ではあったが、回数を追うごとに少しずつ違和感が広がっていくような微妙ななにかが、私にはあった。
映画のタイトルはより多くのお客さんに来てもらうためのもの、と考えれば神経質になるようなことではないのかもしれないが、新作の中国語の原題は『風流一代』で、この漢字表記とてそのまま日本語的に理解をしていいものかどうかは分からないが、少なくても『新世紀ロマンティクス』の邦題はいただけない。監督が自分で望んだものではないだろうけれど、いかにも狙い定めたかのような大時代なこの邦題が、ジャ・ジャンクーの今の立ち位置、結果として背負わされている商標のごときものを如実に示しているようにも思える。
自身の過去作品の引用をしながら、いつもの俳優がいつものように出会いと別れを繰り返して、コロナ禍のミレニアムを迎える話だが、当然のことながら、そこにはこれまでの映画の特性が色濃く反映する。
二作目の『プラットホーム』は、一作目と同様、生まれ育った山西省の古びた白っぽい石の町が舞台だ。共産党政権下で、旅回りのように「娯楽」を提供していく「文化工作集団」の青春群像で、見方によっては、中国社会におけるジャ・ジャンクーの映画的な自覚、その出発をよく現わしているともとれる映画である。
以来、歌って踊っての「歌謡映画」、チンピラやヤクザ者たちが殺人まで起こしてしまう「暴力映画」、そしてなによりも中国社会の激変するさまと、そこでの労働者、人民たちの暮らしぶりを映画の劇に隣接して取り入れてくる「風俗映画」、これらはみな、ジャ・ジャンクーらしさを現わす映画の傾向である。彼を貶めるためにこんな物言いをしているのではない。それらの傾向はときに映画を生き生きとさせる。「ジャンル映画」として方向づけられたものであれば、観客も安心して見られるだろうし、作り手もそのことでむしろ想像力が膨らむことだってある。
問題は「ジャンル映画」を撮ろうとしていないのに、作り手が精神の緊張を欠いて結果として「ジャンル映画」の様相をもってしまうことだ。『新世紀ロマンティクス』を「歌謡」「暴力」「風俗」を併せ持った「ジャンル映画」だと言ったら、この映画を高く評価をしている人たちは怒るかもしれないが、ぎりぎりそんな危うさもないわけではないと私には感じ取れた。
過去作品にはその過去作のみが手に入れた、独自な時間がある。その時間を新たな映画の時間に重ね合わせようとしても、映画はその作品だけが持つ固有の時間によって成立していくのだから、簡単にはいかない。表現のスタイルが同じだからといって、「時間」を引用できるわけではない。
配信ではあったけれど、『長江哀歌』を見直してみた。不思議なことに、かつて見たようには見られなくなっていた。疑問に感じていたことがむしろ拡大されてはっきりと感じ取れたことに自分でも驚いた。
『長江哀歌』は、世界最大級の水力発電ダム、長江三峡ダム建設のじっさいの工事が進行する中で描かれる。この国家事業によって百十万人にも及ぶ人たちが強制移住の対象となり、多くの町が湖底に沈んだ。一党独裁の強権政治がなくては果しえない、それなくしては不可能とも言える、自然の大改造だった。
中国のそうした政治体制の中で、映画監督が撮ろうとするものをどうやって実現していくのか、そこでの労苦は私などの想像を超えて余りあることだけれど、映画として示された手法から、その精神のありようを類推することは出来る。
ジャ・ジャンクーは、肉体労働者や貧しい生活者たちに紛れさせて、役者を置く。例えば船上の人々である。基本は望遠レンズによる盗み撮りに近いもので、タバコを吸い、好き勝手に話に花を咲かせる屈託のない元気な人たちを長いパンニングでとらえたのちに、船のふちに座っている役者が現れる。撮影された人々に、自分たちが撮られていると言う表情はない。一部にはエキストラとしての演技もあるだろうし、ショットによっては、カメラを見ないでくださいと言った程度のお願いはしているかもしれないが、演技者はじっさいの生活者に紛れていて、虚実の分かれ目がはっきりしない。はっきりさせないやり方である。セリフのある芝居場は、その延長に設定されるから、映画を見る者はそれらがみな同一の時空間にあるものとして受け止める。
正確を期さなくてはならないところは、その「寄り添い方」だろう。労働者、民衆、生活者、人民、呼び方はなんでもいいけれど、それらの人たちは映画が描こうとしている感情のベース、共感として在るのか、背景としての被写体なのか、その距離の見定め方はとても大事なところである。一歩間違えれば、簡単に利用主義に陥る危険性はいくらでもある。映画でのヒーロー、ヒロインが「ヒロイズム」そのものを現わすようなことになってはいけない。映画の怖いところだ。
映画には一本一本、その都度、超えていかなければならない「嘘」がある。堪えていかなくてはならない「嘘」が生じてくる、と言ってもいい。さまざまなレベルでそれは障害として立ちはだかってくるが、マニュアルはない。前例によっても超えられないし、みんないっしょに、でも超えられない。いつも一人で新しく超えるしかないものがある。
『新世紀ロマンティクス』のラストは年老いて生まれ故郷に戻った男が、スーパーのレジで働く昔の女と再会を果たす場面だ。買い物したスーパーのレジ袋を女が持って、無言で二人は歩く。男は足を悪くして歩くのが不自由だ。交差点に来て、女はそのレジ袋を男に返して、走ってきたジョギングの集団に分け入っていく。ジョギングは女がこのところやってきている習慣らしい。走る人々は次から次へとその数を増して道一杯に広がっていく。この時の集団とは何か。明らかにジャ・ジャンクーがかつての映画でとらえようとしていた労働者たちではない。性格のない群衆、集団という「概念」である。
映画はどうであれ他者、他の事物を撮ることでしか成立しない。その他なるものは、政治とも、世の中の暮らしの変化とも、無縁ではいられない。映画が天下、国家を論じなくてはならない理由などさらさらないが、長く映画を撮り続けていると、天下、国家なる大きなものにいつの間にか蝕まれて、押し返せなくなってきてしまうことが、確実にある。よほどの力が必要なのだろう。
いつまでも桑の実だの楮の実だのと言っていては始まらないが、さて、どうしたものか。
小栗康平
芝居のよろこび
2025/04/13
先日、私と同じ歳の役者が主演しているというので、映画を見に行った。老いて、ある妄想が突き上げてくるという、その妄想の中身に関心があったわけではない。いったい八十に近い男の顔が映画でどう写るのか、それが知りたかったからだ。役者としての演技は可もなく不可もなくだったけれど、不満だったのは役者に色気がなかったことだ。人物の行儀が良すぎて感興が湧かない。老いて滲み出てくる人間の味わいのようなものがなくては美しくはないではないかと、私は家に帰ってトイレにある大きな鏡でつくづくと自分の顔を見た。映画での役者とさして変わっていなかった。こんなものなのかと、ひどく気持ちが重くなった。
そんなときにネットで妙なものを見つけた。妙なというのは、そうか、こういう組み合わせもあるのかと思ったからで、「作 山田太一 主演 笠智衆」でまとめた三本セットで、NHKのDVD‐BOXになっていた。
『ながらえば』『冬構え』『今朝の秋』が入っている。『ながらえば』と『冬構え』はシナリオで読んでいたけれど、『今朝の秋』は知らなかった。三作品とも放送で見ていない。普段から私はテレビでドラマというものをあまり見ないので、山田太一さんのドラマも大半は見逃したままだった。後で人に聞いてみたら、NHKオンデマンドなるもので今はいろいろ過去作品を見られるらしく、わざわざ高いお金を出してBOXを買わなくてもよかったらしい。でもこれはこれでいいか、と自分では納得している。
三作品は昭和57年から62年までの五年間に作られている。笠智衆さんが演じてくださることを前提にして、山田太一さんがお書きになったものだ。笠智衆さんは小津安二郎監督の『父ありき』で初めて主演に抜擢されたのが三十九歳の時、松竹蒲田撮影所の俳優の第一期生で、それまでは撮影所で大部屋と言われていた端役の一人に過ぎなかった。その『父ありき』で息子を演じたのが佐野周二さんで、こちらは松竹大船撮影所の第一期生の二枚目である。ひどく立派に見えるその息子が、笠さんの父を素直に思いやっている姿を見て、なにか不思議な気がしたのを覚えている。二人の年齢差はわずか八歳でしかなかったらしい。
以来、笠智衆さんが一貫して老け役を演じられてきたのはよく知られているところだ。その笠さんの七十九歳から八十四歳の仕事である。「老け」の役ではなく、実年齢と役の歳がいっしょになってのお仕事である。でありながら、あの飄々とされたお姿はなに一つ変わっていない。
『冬構え』の圭作は七十九歳、妻を亡くして独り身である。貯金をみなおろして東北へ一人旅に出ている。子供も孫もいるようだが老いて迷惑はかけたくないと、バックに入れた金を使い終わったら自死しようと考えている。台本の設定としては些か強引な感は否めない。それでも筋の運びをスムースに感じさせてしまうのは、セリフがいいからである。山田さんのお書きになるセリフのうまさがあってのことだ。テレビは放送で、前身はラジオである。ラジオは「聞くもの」だから、その基本となる性質は「画像」になっても大きくは変わらない。
それでも『冬構え』のシナリオにはセリフのないこんな場面もある。
ホテルの一室(和室)
圭作、へたりこみ、静かに泣いている。
ぽつんと、淋しい。
山田太一さんはそっけないほど簡潔に書いている。演出は深町幸男さん。笠さんは、台本に書かれてあるままに泣いていた。残酷だなあと、私は思ってしまった。芝居だから求められればやるのが仕事だとしても、一人の芝居で人生を背負って泣く、のは辛くないだろうか、そういう時が人生にあるとしても、そもそもそうした瞬間を画像にして見せていいものなのか、見ていいものか、残酷とはそういう意味である。
圭作が旅の途中で会社の同僚だった男の家を訪ねる。男は病院に入院していた。この男を小沢栄太郎さんがやっている。ベッドで寝たきりの芝居で、写っているのは上半身だけである。手が動く程度で起き上がるわけでもない。それでもその表情、声のトーン、間合いが落ち着ていて、芝居として深い。
「家内もね(と急に泣き声になる)」とト書きにはあるが、芝居ではしんみりしてはいなかった。「もう四年寝たきりで、この病院のあっちで、耄碌しちまっている」「様ァないよ。夫婦で病院で、死ぬのを待っている」
なかなかすんなりと書けるセリフではない。これを書いたとき山田さんは四十八歳。自身が老いてからでは書けなくなるセリフだろう。遅くまで病室にいてくれた圭作が、隠しごとをしていることに男は気づいていく。「そりゃあ、いかんよ」「そんなことはいかんよ」「いかんよ、あんた」。圭作は「そういう、決まり文句は、いわんでくれ」「いわんでくれ」と返す。
台本を読んでさほどこころ動かされた覚えはない。それが見事な場面になっていた。小沢栄太郎さん、撮影当時七十九歳だった。
ラストにもう一人いい老人が出てくる。藤原釜足さんである。このドラマが遺作になってしまった人だ。
圭作は金の使い方が分からずに、部屋に付いた若い仲居さんに法外なチップをはずむ。その娘は同じホテルの調理場で働く青年と店を持つことを夢見ている。圭作は別れしなに百五十万円もの大金を、タクシーの中からぽいっとその二人に投げて渡してしまう。どう考えても尋常ではない。青年はお金のことではなくて、あんたのことが心配なんだ、と後を追って、祖父の住む農家に圭作を連れて行く。そのおじいちゃんが藤原釜足さん。若い俺には言えないから、じいちゃんから言ってくれ、「人間、生きているのが一番だ、とかいうて欲しいだ」と。
ラストシーンはその藤原釜足さんと笠智衆さんのお二人の場面。これが洒落ている。
「わしには、生きとるのが一番だのって、そしたことはいえね(淡々という)」
「‐‐」
若い二人が海辺ではしゃいでいるシーンが挟まる。
「しかし、死ぬのも‐‐」
「うん?(と見る)」
「なかなか容易じゃあのうで」
「うんだ」
そしてドラマはこんなセリフで終わる。
「少し、ここさいてみねえがして」
「(目を伏せて)はい(と考える)」
「こう見えても、気心、知れてくれば、結構しゃべるだ」
「そうですか」 二人、笑い合う。
その老いた男二人の、はにかんだ笑顔が忘れ難い。色気がある。役者の力だ。見ていて芝居のよろこびがある。
歳のいった役者さんたちの芝居がいいのは何故だろうか。諦念のようなものが根底にある、と思ってみる。よく見せようなどという、エゴや自我が剝き出しになることはない。だから芝居で心理を追うなどというケチな考えも働かないし、余分に動いて目立とうなどとすることもない。結果として、その人の人格のようなものが輪郭を見せて、なにか遠いものと向き合っていることが感じさせられる。
『ながらえば』でもう一人いい役者が出ている。宇野重吉さんである。
この作品は、老いた妻を名古屋の病院に残して富山に引っ越していく岡崎隆吉の右往左往を描いたものだ。引っ越し前に病院を見舞ったとき、老妻は検査で病室を留守にしていた。もうちょっとだけ待てば、と言う息子の意見も聞かずに富山への特急電車の中にいる。ドラマの冒頭はその名古屋駅の描写から始まる。山田さんの台本の指定通りに、短く「現実」そのままが寸描される。その情景に情感はない。通り一遍の日常としての断片描写である。
息子たち夫婦といっしょに富山の新しい居に移ったものの、なぜ妻に会ってこなかったのか、もうこのまま一生会うこともなくなってしまうのではないかと、幾分、耄碌を抱えながらも焦りだす。引っ越ししてきて、三日もしないうちにまた名古屋に行くので金をくれと言ってもそうはいかない。隆吉はわずかな金で途中駅までの切符を買って出奔してしまう。でも急行券を買っていないので山間の小さな駅で降ろされてしまい、二時間待って次の普通列車に乗ってください、となる。
隆吉はそこで途中下車はしたけれど、ようやく来た普通列車に乗ろうとしたら、切符が見つからない。目の前で乗るべき列車を逃してしまい、やむなく駅前近くの旅館に宿をとる。
その宿で、宿の主の妻が死ぬ。亡くなるのは名古屋の病妻ではない。ここが上手い。お悔やみを一言、といって仮の通夜に隆吉がお付き合いすることになる。この主人が宇野重吉さんである。お金を持っていないことを告白して、古くなって時間も正確ではなくなってしまっている腕時計を笠さんが宇野さんに差し出してお金を無心する。事情を知った宇野さんの主人は「貸しましょう、お金、貸しましょう」と言って笠さんを思いやる。気持ちが通ったいいシーンになっていた。
笠智衆さんは小津さんあっての人だ。育てられたと言うよりは、小津さんによって生み出された俳優である。「俳優」をここでは「わざおぎ」と読みたくなる。「わざおぎ」とは、日本の芸能の起源に触れる言葉で、身振りや動作によって神を招く意、と辞書などにはある。小津映画で言えば、小津さんの聖なる時空間でカミを招く人が笠智衆さんということになるだろうか。
一方で小沢さん、宇野さんは新劇の出で、俳優座、劇団民芸の雄だった方たちだ。戦前にはお二人とも治安維持法違反で逮捕、収監されてもいる。「新劇」はその後、小劇場の時代にとってかわられながら、役者たちは映画、テレビに活躍の舞台を移していく。藤原さんは新劇ではなく、軽演劇と言われていたところの出身で、早くから専属の映画俳優と言うものになった草分けでもある。いずれにしても笠さんとはおよそ出自が違うし、芝居の質も異なる。そういう人たちが揃いもそろって、演劇で磨いてきた芝居の蓄えを、惜しげもなく、明るい茶の間のテレビに引き継いでいたのである。時代の変わり目、ではあった。
『今朝の秋』も他の二作品とまったく同様に、死にゆくものを巡ってのドラマである。考えてみればこれも凄いことだ。暗闇の中で一人ひとりがスクリーンと対峙することを基本とした映画でも、ここまでシリアスなものは続けられない。日常の中にあるテレビだからそれが出来る、としたら、なんという逆説だろうか。テレビはどんな受容のされ方をしているのか、なにがその逆説を可能とさせているのか。考えるとちょっと怖くもなる。
笠さんが演じるのは息子を看取る父親の話である。この息子を杉浦直樹さんが演じている。当時、役と同じ五十三歳だった。老人役ではないが、死を考えれば歳が幾つであろうと関係ない。この芝居が実にいい。息子の妻が倍賞美津子さん、ブティックを経営していて元気がいい。夫、つまり笠さんの息子との別れ話が進んでいる。木彫りで欄間を作る職人さんだった笠さんは、蓼科で一人暮らしをしている。女房は二十年も前に出て行っている。これを芸達者な杉村春子さんがやっている。道具立てとしてはみな揃っていて、そうした人たちが一斉に見舞いに来るのだから、息子も死の近いことを悟らざるを得ない。父親に「蓼科はいいでしょうね、行ってみたいなあ」とつぶやく。やりたいことをさせよう、笠さんはそう考える。二人して夜半に病院を脱出し、蓼科に帰り着く。今度はその二人を追ってみんなが蓼科に集まってくる。玉つきの「寄せ玉」に例えられる、ドラマの一つの定石である。
全員が一つ所に揃って、「疑似の家族団らん」になる。「あたしにもこんな家族があったのね、こういう感じ、本当に久しぶり」という「母」のセリフを受けて「息子」が突然、歌い出す。
忘れられないの
あの人が好きよ
青いシャツ着てた
海を見てたわ
お父さん、お母さんが出て行ったあと、酔っ払ってよく歌っていた、と息子がいう。笠さんはこれ、よせ、と照れる。お母さんはもちろんそんなことは知らない。でも有名な歌だから、やがてみんなでこの歌の合唱になる。山田さんは、こういう日常の仮面を剥ぐような怖いことを時々なさる。それを武満徹さんの音楽が一気に引き取って、ドラマは幕を閉じる。
こうした場面を今、自分は撮れるだろうかと考えるとはなはだ心許ない。子供のころ、「これ、嘘っこ」といって遊んだことがある。これは真似事で、本気じゃないから、そう宣言して、だから弾けて遊べた記憶。演じる者にもそれを見る者にも、これに近い芝居のよろこびはある。私はその喜びを捨てて今日まで来てしまっている。
『死の棘』を終えて、芝居を撮るのはもういい、そう決めてしまったのだ。『死の棘』は、ギリギリと締め上げていく音が聞こえるほどに、個と個とが向かい合った映画だった。小説家の言う自我とはなんですかと、トシオはミホから否定され続けた。撮り終えて気がついたら、私自身も這い上がれない蟻地獄の中でもがいていた。
西洋近代が生んだ映画なるものは、いつもフレームの中心に人間を置いた。それが窮屈になった。自身で持っていたかもしれない自然観、人間観はもっと広いところで生き生きとしているのではないか、映画のこの狭いフレームで囲ってはいけない、そう思って次作が『眠る男』になった。それからの方法が充分だったなどとは決して思えなかったけれど、戻れなかった。
久しぶりにテレビドラマを見て、その寄ったサイズで、芝居のよろこびに気づかされるのもなんとも皮肉なことだ。でも手がないわけではない。老人たちの芝居を見て、そう思った。
この文章を書いている途中に、篠田正浩さんの訃報を新聞社から知らされた。山田さんは二、三年遅れて松竹大船撮影所で篠田さんといっしょになっている。山田さんは木下恵介さんに可愛がられて、その木下さんがテレビで「木下劇場」なるものをやることになり、それを機に山田さんも松竹を出られた。以来、テレビが主な仕事の舞台になった。
篠田さんの追悼文を朝日新聞に寄稿した。以下にそれを転載します。
篠田正浩監督・追悼
「もう私の映画のお客さんはいません」と篠田正浩さんがお昼をごいっしょしたときにさらりと言った。それと同じ時だったか別だったかはっきりしていないけれど、「こんなにも途方に暮れた十年はなかった」と洩らされたこともある。『スパイゾルゲ』を最後にして映画を撮らなくなってからずっと後のことである。
途方に暮れるどころかじっさいには、映画を離れて『河原者ノススメ』『路上の義経』(共に幻戯書房)の二冊を上梓されている。日本の芸能史を掘り下げた読み応えのある論考だった。そうであるにせよなおと言っていいのかどうか、映画監督として在ろうとしてきたその身体が老いて思うに任せなくなってきたときの悲哀を、私はその篠田さんの言葉に思った。
訃報を知って、これで日本の映画は歴史と切れていく、通史としての姿が見えなくなって、この先はただ表層を漂っていくだけのことになるのではないか、とそんな感慨にとらわれた。篠田さんのような圧倒的な博識と深い教養に裏打ちされて、映画を日本文化の根底で考えようとする人はもういない。
篠田さんの映画は日本史を縦横に行き来してきた。そしてその都度、ご自分で理路整然と語られることが多かったから、いかにも迷いなくといった印象を持ちたくなるが、それは自分を「芸能者」と位置付けて語る一種の韜晦で、監督なる業の困難さは、隠されたままではなかったか。近代の映画表現とリアリズム、そこにまとわりついて離れないモダニズムと「芸能」との容易ならざる合一を、いつも夢見ておられた。
後に松竹大船撮影所に反旗を翻して作家のプロダクションを作った大島渚さん、吉田喜重さんたちと一括りされて、篠田さんも「松竹ヌーベルバーグ」と呼ばれたりしていたけれど、篠田さんはどんなエコールにも属さなかったと思う。明るいニヒリストとでも言いたくなる、独特な単独者だった。
私は『心中天網島』でカチンコを打ち『卑弥呼』でスクリプターやらせていただいた。日本アート・シアター・ギルド(ATG)の一千万円映画と言われるもので、相当に厳しい現場だったが、この二作品を経験することで私には助監督として怖いものがなくなり、篠田さんから離れた。篠田さんはそういう私を「(篠田組から)家出した不良息子」と呼んで可愛がってくださった。師匠筋の浦山桐郎さんが亡くなって以降、私には篠田さんが同業の監督として打ち解けて話の出来るただ一人の人だった。
私の『眠る男』を見て「『南の女』が森に入ってニホンカモシカと対面する場面では総身に震えがきました。そしてその直後、大きな木が倒れてきたときには完全に打ちのめされました。」とお手紙をくださった。『FОUJITA』では、カメラポジションについて書いてきてくださり、被写体に少しでも近づくと「美術映画」や「伝記映画」あるいは歴史に吸引されてしまう危機に堪えた「貴兄の<位置>は、小津以後の革命的な映画の作法ではないか、と考えています」とあった。誰もこんなことを言ってくれた人はいない。
篠田さん、満州事変の年に生まれた篠田さんが十四歳の時に見た敗戦の光景と、日本映画の今の惨状は重なって見えてはいませんでしたか。『平家物語』で二位尼が八歳の安徳天皇を抱いて「浪の下にも都の候ぞ」と海に沈んでいく場面を大好きだと『日本語の語法で撮りたい』(NHKブックス)の中で書いていましたね。篠田さん、海の底にも映画の「宮」はありましたか。淋しいです。
小栗康平
針穴
2025/03/03
佐伯剛さんの初めての写真展「かんながらの道」でトークに呼ばれて行って来た。二週間ほど前のことで、写真展は盛況のうちに終わったようだった。写真はすべて「針穴写真」である。折角だからこの手記で触れておこうと思っていたら、佐伯さんのブログに「かんながらの道と、小栗康平監督の映画」なる文章がすでに載っていた。佐伯さんはこうかなと思いついたら、どんな時でもやりかけていたことをやめて、一気に書いてしまうのだそうである。ブログの更新はなんと1500回を超えている。私などは遅いもいいところで、〇が二つは少ない。「二十歳の頃より小栗さんの薫陶を受け続けた一人として、身の程知らずかもしれないけれど、その魂のリレーを担う一人になりたいと思うのです。」などと書かれたうれしい一文もあった。私の『埋もれ木』の終わるのを待って、『風の旅人』に誘ってくださり、前田英樹さん、鬼海弘雄さんたちと出会わせていただき、大事なお付き合いにさせてもらえてきたのも、佐伯さんのおかげである。お礼を言わなければならないのは私の方である。以下のアドレスで佐伯さんの文章を読める。
https://kazetabi
小学生のときにピンホールカメラのような実験をした。図工の時間だったか、理科の時間だったか。その時の感光材はどうしたのか、そもそも写真にまではしていなかったのか、よく覚えていない。私にはほとんど「糸電話」と同じレベルで、日向ぼっこをしているような、遠い記憶である。
佐伯さんは自ら「写真家」とは名乗らない。鬼海さんから頂いたと言っていた立派な写真機もお持ちだが、写真として発表しているのはこの「針穴写真」だけである。「ピンホール」が横文字だからなのか、ちょっとオシャレに感じられなくもない。「針穴」の方がなにやら凄そうに思えて、いい。
佐伯さんは日本の古層を訪ねる旅をして来ている。お手製の「針穴写真機」で、各地の遺跡や古墳、磐座(いわくら)、神社などの霊場を撮ってきた。そうしたところを撮るにはこの「原始的な」写真機が丁度良かったのかもしれない。年に一冊ずつまとめて今年で五冊になった。その記念の写真展である。
針穴写真の仕組みは佐伯さんが書かれているからそちらを見てもらえればいいのだけれど、要は、光を屈折させて一点に集めたり発散させたりする「レンズ」なるものを用いず、針で開けた〇・二ミリの穴を通して光を入れているだけだ。その僅かな光が入射した角度のまま直進して交差し、逆さに像を形作る。その日、その場所で天候は異なるだろうし、光の届き具合も変わってくる。露光時間はそれまでの経験と、あとは勘である。一分とか二分とか、長い。シャッターの機能はない。もちろんファインダーもないから、直接覗くことはできない。フレームはこうだろうかと予測してカメラを置く。ずいぶんと集中力が必要だろう。三脚でしっかりと「針穴写真機」を固定したら、あとは光を迎え入れるようにして、待つ。
その間に、雲間で光が揺れる。風もそよぐ。木々も木漏れ日も、千変万化して様々なニュアンスを万物に落とす。だからどの写真にも、なにか「もやっとした」感じが付きまとっている。それがいい。像を結ぶ、一歩手前の感じ、佐伯さんはそう言っていた。見ようによってはピントが甘い、と受けとめられるかもしれない。しかし逆に、そここそが考え方の違いなのだと私などは思う。
映画の撮影ではフォーカスマンと言われる専門の撮影助手がつく。人物のアップを撮るときなどであれば、カメラから伸ばした巻き尺のスケールを俳優さんの眼もとに持っていって、正確にフィート数を出す。専門的に言えば、レンズによって「被写界深度」が違ってくるので、女優さんの顔をきれいに取ろうとすれば「被写界深度」の浅い望遠目のレンズを使う。目の位置と頬や鼻とでもレンズからの距離は微妙に違うので、その誤差がボケを作ってなにやら美しく見える。私はやらないけれど。
普通は、なににフォーカスを合わせているかと言えば、事物に、と言っていいかもしれない。ところが佐伯さんの「針穴写真」はそっちではない。「時間」を撮っていると感じられるのだ。もちろん写真だから構図もあり「空間」が捉えられるのだけれど、主眼は「時間」の方だ。佐伯さんが「日本の古層」として捉えようと試み、ときに「もののあわれ」と言ったり「かんながらの道」と言ったりしてきたものがそれで、日本の時間の感覚と言っていいかもしれない。日本人の時間は、積み重なり、循環し、めぐり続けている。時間を断ち切らない。日本の自然観の根底にある考え方だ。
シャッタースピードを二百五十分の一(秒)とか六十分の一とかで撮る写真は、切り取る、感覚に近いかもしれない。映画でも撮影をSHООT(シュート)といったり、一つひとつの画像をショット、と言ったりする。撮るとは、獲る、でもある。ずいぶん昔のことになるけれど、パリの映画博物館で見た最初期の映画用カメラの原型は、まさしく銃の形をしていて驚いたものだ。
針穴写真の独特な雰囲気は、見ることがただ単純に被写体との「対応」ではないことを気づかせてくれる。考えてみれば当然のことで、私たちは身の危険でも迫らない限り、そうそうものごとをくっきりとは見ていない。そんな疲れてしまうようなことはやってはいないのだ。ほどほどに、ぼんやりと、わが身がなにごとかに包まれてある充足の方を私たちは生きている。気配とか、はっきりとはしないけれど、確実に感じられるものの方が、見えて在る表象よりも深いのかもしれない。
今回はカラーでプリントされたものも多かった。針穴で色が撮れる、とちょっと不思議な気がしたけれど、感光材の問題だけのことで、CCDでも針穴写真は可能らしい。ただその色も、発色しているという感じではなく、色をそこにのせている、といったふうに感じ取れる。写真が誕生する以前の絵に、写真が再び(?)戻ったかのようでもある。
古いものだけでなく、都市に目を向けた写真も面白かった。京都の二寧坂、八坂の塔が奥に見える坂道に、たぶん人が行き来しているらしいのだが、露光が長いので、姿としては写らない。まるで霊のごとくシルエットが揺らめいている。ただ、都市でのそれらの霊は厳かな有難い霊ではなく、「幽霊」の霊に近いかもしれない。池袋の雑踏も新宿の安い飲み屋街で飲む人たちの群れも、みな幽霊で人として写らないとなると、面白いと言うか、怖い話でもある。
ワンカット撮るのに何分もかかる「針穴写真機」ではそもそも映画は撮れないだろうけれど、人の姿や顔を撮るのではなければ可能なのか、などとひねくれた考えも浮かんだりした。ハマスホイの絵のように、人がたたずむ後姿だけであれば「動かないで」とも言えるし、目線は交わらない。だったら安手のドラマは起きようもない。そんなあらぬことを考えながら帰りの電車に乗ったら、車内の広告は人の顔ばかりだった。見たくないなあ、が実感で、こんなことではさらに映画が撮れなくなる。
佐伯さんの写真展に前後して金井一郎さんの展示会を見た。私は金井さんを存じ上げていなかったのだけれど、吉祥寺の市立美術館で比較的大きな金井一郎展があって、それを見た知り合いの俳優さんが、透明でひんやりした感じがして私の映画のようだった、と教えてくれたのだ。でも知ったのが最終日で、見に行けなかった。その後、西銀座と池尻大橋の小さなギャラリーで相次いで金井さんの催しがあった。
『宮澤賢治・作 金井一郎・絵 銀河鉄道の夜』がmikiHОUSEから出版されていることをそこで知った。初版は2013年で2023年に第六刷が出ている。「十代の終わりごろから影絵の制作を始め、その後『翳り絵』の手法を見出し、五十年近くにわたって作り続け」てこられたと、その本の奥付にあった。金井さんは私とほぼ同じ歳である。ライフワークとはまさしくこうしたことを言うのであろう。不思議なのは、こちらも「針穴」だったことである。さらに展示会の照明が佐伯さんも金井さんもともに暗いことも共通していた。
「翳り絵」とは、黒のラシャ紙に針で孔をあけて、その紙は一枚ではなく基本は二枚、キャンバスの枠を使って止めて、その間にアクリルの板を挿んで、層を作る。後ろから光を当てて、その透過光が表面に貼られたパラフィン紙に、散る。光点が滲む。ベースになっているのは黒で、わずかな光がものごとの輪郭を作り出す。それがとても美しい。てかてかと光を当てるような世界ではまったくない。
佐伯さんの針穴写真と同様に、こちらも映画向きの手法では全然ないのだけれど、明るいだけの今の世の中で見落としていることを教えられた気になった。
池尻大橋での展示は「翳り絵」ではなく、簡素な舞台美術のような街や家、その一角が小さなサイズで作られていて、そこにさらに小さな電柱の明かり、電灯がぽつんと灯っているものだった。独特な小世界である。
金井さんが四十代半ばのまだ若いころの、「翳り絵」を制作している姿を撮ったDVDも見せていただいた。すべては時間のかかる手作業で、何本か束ねた針をトン、トン、トンとひたすら打ち続けていた。その音が今も私の耳に残っている。
針穴は湿度の変化に微妙に反応してしまうものらしい。塞がりはしないけれど、なかなか針穴の大きさが安定してくれないのだと金井さんから聞いた。
『銀河鉄道の夜』だけで「翳り絵」は百点近くあるらしい。いつかこれを画像にして残せないものかとも思う。4Kで光源を変化させながら撮ったら、新たな動きまでもが感じられるようになるかもしれない。
展示会の後で食事になった。同行した津嘉山誠さんが一席設けてくれたのだ。金井さんからお土産にカラスウリのランプを頂いた。カラスウリの実をくりぬいて乾燥させ、それを小さなライトに被せる。賢治が『銀河鉄道の夜』で書いた烏瓜流しの、烏瓜のあかりはこんなふうなものだったのだろうか。暗闇で点灯すると、薄赤い別世界が生まれてくる。
小栗康平