小栗康平 手記

暮らしの受け皿

2026/03/16

地方の小さな町に住んでいるので、家の周辺には里山のへりに広がる田んぼ道などが残っている。散歩するには事欠かないのだけれど、ときに車に乗って十五分ほどの公園まで行く。敷地面積はやたらと広く、いくつもの運動場も併設されている。その中ほどに一周すると二キロほどの池がある。池は水を溜めるところだろうから、土地の一段低いところにあって、池を巡っている歩道にはアップダウンがない。手入れの行き届いた雑木林が辺りを覆っている。わずかな水のひろがりではあるけれど、水を近くで感じながら木の下を歩けるのは気持ちがいい。
池の隅を区切って、ショートカットしている歩道がある。そこの小さくなった方の池のふちに、いつも十人近くの人たちがカメラを並べ、折り畳みの椅子に腰かけている。どのカメラにも高価そうな望遠レンズがついていて、三脚も立派である。でも誰もカメラを覗いたりしていない。なにか独特な、濃い空気をその一角だけが醸し出している。
狙いはカワセミだった。飛ぶ宝石、水辺の宝石、清流の宝石などといろいろに言われている小鳥で、飛んだ時の背の青色とお腹のオレンジの色がなんとも美しい。カレンダー写真などで私も知っている。
そのカワセミがこの池のどの枝に来て、どこで池の小魚を捕食するのかまで、誰もがみな熟知していて、ただ待っている。来た、来た、などと余分なことは言う人はいない。顔ぶりもあまり入れ替わらないこの同好の士たちは全員が男性で、それぞれに一家言を持っているらしく、会話も交わさない。みなそれなりの年配者だ。
「ムービーは撮らないのですか」と尋ねたら、なんでそんなものを、と言わんばかりにじっと見返されてしまった。この人たちはカワセミの生態に関心があるわけではなく、静止画の、それぞれの瞬間の色、形に魅せられているのだから、動きはむしろ邪魔なのかもしれない。

アンリ・カルティエ=ブレッソンに「サン=ラザール駅裏、パリ」(一九三二年)という写真がある。縦型のモノクロで、男が駅裏の広い水たまりを飛んだところだ。人物は画の中心を外れていてちょっとピンボケだが、写真の半分以上を占めている水たまりにその男の像が逆さに写っている。着地するその寸前で動きが止められているので、両の足は空中にあって水には着いていない。動きを止められた男はなんだか間が抜けて滑稽にも見えるけれど、見ていて飽きない。一枚の写真からあれこれと考えが湧いてくる。写真家の「見る眼」が示したもう一つの、人と世界との柔らかな接触面である。
望遠レンズで撮られるカワセミの写真は、現実の単純な拡大だけで、フレームで思考することもなく、構図も必要としない。もとより同日の談ではないのだけれど、この二つの写真の違いは、誰が見ても一目瞭然である。
では「そんなもの」と言われた(かもしれない)ムービーとなると、どうだろうか。途端に怪しくなる。

「動き」は変化だから、眼はそれを楽しむだろうし、惑わされもする。加えて通常、ムービーなるものはワンショットでは出来ていない。いくつものショットが組み合わさっている。それらのショットはそれぞれに空間の作られ方が異なり、ショットの長さ、時間の感覚も各々である。これらは相互に影響し合うから複層していて、いつの間にか「見る眼」がなんであったのか忘れる。
ましてや動きの中で、動きに反して潜在しているものを見出していくとなると、なかなか大変になる。絵画や写真でこれまで私たちがふつうに感じとっていたものなのに、である。
映画、テレビ、ユーチューブ、メディアの違いまで意に介さないで、便利で、面白ければいいではないかと一括りされてしまえばそれでオシマイである。

映画はどんなセリフも行為も、暮らしの中に置かれている。演劇のように抽象化された舞台があって、そこで「言葉を発するものとしての人間」を見ているわけではない。映画は具象である。人が生きている具体の中にあるから、基本は(あくまで基本はであるけれど)リアリズムである。でもだからこそ映画は、見る者の視覚、眼差しの記憶に根を下ろしていくことが出来る。どんなジャンルの映画であってもそうだ。画像には暮らしの襞が幾重にも折り重なって、奥行を作っている。映画の、曰く言い難い幅である。
ところがこのところ私たちの暮らしそのものがなんだか様変わりしてきてしまっている。レストランに行っても注文はタブレットで、お金も触らない。言葉も交わさない。情報に振り回されて、すべてが記号に置き換えられて世界を漂っているかのようでもある。魚屋さんでお刺身を切ってもらうことなどもうなくなってしまった。
事物に感情が蓄積しない。映画がそこに預けることで初めて豊かにもなった、そういう暮らしの細部、受け皿がことごとく痩せてしまった。これでは映画表現は立ち行かない。リアルとヴァーチャルの、どっちがどっちをリードしているのかさえ分からなくなってきてしまっている。

映画は映画だと、端から作り手が定めてしまうようになったからなのか、これまで見てきた映画的な快楽が模倣され、寄せ集められるようにもなる。映画としてのまとまりはよくなるだろうけれど、見終わって「それで?」と聞きたくなってしまうことがないわけではない。饒舌で、痛みがない。
画像の氾濫に溺れて、どんなものでも撮れると勘違いしているようなことも見かけるようになった。消防車で「雨降らし」をしてまでして撮る大変な撮影、自然の条件が整うまで粘り強く待ったであろう実写の撮影なのに、根底にその自然への畏怖がなく、結果としては当の本人の意に反して、近代主義そのものを写してしまう、そんな映画もあった。

映画はずいぶんと頑張らないといけなくなった。でも頑張り過ぎるとまたおかしくなってくる。

小栗康平

事務局からのお知らせ

» 一覧
『佐藤忠男、映画の旅』 トークイベントのお知らせ
2025年11月03日
【第15回 邑(むら)の映画会】『伽倻子のために』上映、小栗監督挨拶のお知らせ
2025年10月03日
《対談》「映画と仕事」小栗康平×前田英樹 掲載のお知らせ
2025年08月15日
『泥の河』上映のお知らせ(横浜ボートシアター)
2025年04月15日
追悼:篠田正浩監督
2025年04月03日
» 一覧

手記 バックナンバー