小栗康平 手記
追悼:アン・ソンギさん
2026/01/12
正月の松もとれないうちにアン・ソンギさんが亡くなった。年末のネットニュースで食べ物が喉につかえて心肺停止し、意識不明のまま病院に救急搬送されたと報じられていた。心配しながら正月を過ごしていたけれど、五日になって訃報が届いてしまった。
アンさんがガンらしいと、役所広司さんが年賀状に一言触れて知らせくれたのは六年ほど前のことである。パンデミックもあってアンさんとはしばらくお会いすることもなく過ぎていた。その後、ガンは血液のガンで治療はうまく行っていると誰からとなく伝わってきてはいた。なんということだろう。闘病で体力が落ちて、誤嚥を招いてしまったのだろうか。
韓国の葬儀がどのように行われるのかも分からないまま、とにかく航空券を手配した。直接、お別れをしたかった。韓国映画の日本語字幕を担当されていた根本理恵さんに情報を集めていただいた。出発前に監督のイ・チャンドンさんから詳細が送られてきた。韓国では亡くなってから三日間、弔問を受けるとのことで、病院に付属した殯(ひん)所に遺体は安置されていた。八日、ソウル着の便がとれていたので、間に合う。
『眠る男』に出ていただいたのは九十五年で、そのときはまだ映画を含めて日本の大衆文化は韓国では解禁されていなかった。アンさんの出演にはリスクが伴っていたはずである。ありがたいことに翌九十六年に第一回釜山国際映画祭が開かれ、『眠る男』が韓国でオフィシャルに公開された日本映画の最初の作品になった。
喪服で飛行機に乗り、金浦空港からまっすぐ向かった。日本語はあまり上手くはないけれど、急きょ、ソウルにいる知り合いの韓国人がアテンドしてくれることになった。
花に埋め尽くされた棺の横に奥さまと二人の息子さんが立たれていた。以前、私はアンさんの江南のマンションにうかがっている。長男はその時のことを覚えていてくれた。今はもう三十八歳になっていた。アンさんに顔立ちがよく似ていて、見るからにやさしそうなところも生き写しである。シカゴに住んで美術をやっているらしい。アボジ(父親)が偉大過ぎて俳優の道は選べなかったと言う。美術はオモニ(母親)譲りなのだろう。江南にうかがった折に彼女の作品を見ている。現代彫刻のジャンルになるだろうか。
クジョルパン(九節板)というお祝いの料理を作って下さった。八角形の器に花びらのように色とりどりに盛られたもので、かつては宮廷料理の一つだったらしく、食べて頂いてしまうのがもったいないほど美しかった。以来、韓国を訪れる度にアンさんとはよく会った。韓国の映画監督たちが同席してくれることがほとんどだった。
棺のすぐ脇に簡素な直会の部屋があって、そこで奥さまともいろいろお話することが出来た。共同葬儀委員長をつとめていた監督のぺ・チャンホさん、俳優のチョン・ウソンさんたちもそこに詰めていた。
アンさんは敬虔なカトリック信者だったと聞く。翌朝、明洞大聖堂でミサが行われ、その後、同じ敷地内の別館に棺が移されて「映画人葬」として告別式が行われた。
アンさんはアボジがプロデューサーだったこともあってか、子役として早くから映画に出ている。兵役の前後で俳優をいっとき辞めて、再デビューしたのがイ・ジャンホ監督の『風吹く良き日』(1980年)だった。この映画を私は初めて韓国を訪れた八十一年にソウルの映画館で見ている。映画が始まる前に国歌が流れ、観客は全員が直立不動の姿勢をとった。
『伽倻子のために』にとりかかる前の、いわば勉強のための旅だった。李恢成さんの原作は在日の話だから韓国での撮影はなかったけれど、ソウルから光州、済州島、プサンと回った。
ソウルでサイレンが鳴って、街から人々が一斉にいなくなった。なんのことか、なにが起きたのかと分からないでいると、その日は六・二五、朝鮮戦争勃発の日で、避難訓練でもあった。何人かの映画のスタッフが同行していたけれど、私たちはなんとも甘い旅行者だった。チョン・ドゥファンの軍事政権下である。
『風吹く良き日』でアンさんは中華屋の出前持ちを演じていた。金持ちの娘に弄ばれるようにしてディスコに連れて行かれる。もちろん貧しく冴えない若者にそんなダンスは踊れるはずもない。ところが突然、その若者に韓国の農楽のリズムが蘇り、ケンガリ(鉦)の音とともに周囲を圧倒して踊ってしまう、そういう場面があった。言葉も分からないまま見ていても、ひりひりとした痛さが伝わってきた。
「映画人葬」の告別式で、アンさんが出演した映画のダイジェストがスクリーンに写された。なにしろ出演作は百七十本にもなると言う。短いショットでそれらの役柄、扮装を見ていると、百面相にも近い。それほどまでに様々な役を演じてきたのは、もちろん才能であり、国民的と称される俳優だったからだろうけれど、アンさんは韓国の現代史に与して生き、演じ、八十年代からの韓国映画の目覚ましい興隆を引っ張ってきた。アンさんの誠実さとは、時代に向き合うその向き合い方なのだろう。九十歳に近いイム・ゴンテック監督も杖を突いてお別れに来られていた。イム監督がそれまでの商業映画を離れて『曼荼羅』をはじめとして数々の名作を撮り始めたのも八十年代に入ってからのことである。『伽倻子のために』が岩波ホールで上映されていたときにアンさんとともに来日されていて、たまたま神保町の飲み屋でお目にかかったのが最初である。
韓国の映画人たちは概してみな仲がいい。もちろん反目や競争もあるだろうけれど、それ以上に、自分たちが新しく韓国映画を切り拓いてきたと胸を張っているような連帯感がある。ここははっきりと日本と違っている。
日本は、六十年代に入って大手映画会社が斜陽化して、製作部門を切り離した。悪く言えば、野に放って、後は知らない、いい映画が出来れば配給し、興行します、というだけのことで、寡占化した体制は解かれてはいない。
韓国では、日韓併合の時代、そもそも韓国映画なるものはなかったわけで、解放後も直ぐに映画の業態が整ったわけではない。しかし始まったら早かった。製作、配給、興行の三部門が「近代的」に編成されてからは、財閥の資本も含めて映画への投資が盛んになった。政府の国家戦略としての映画支援も厚く、釜山国際映画祭はそのメルクマールだった。「コンテンツ」産業などと分からない言葉を使って、アニメーションを世界に売る、などと言っていた日本とは大違いである。
業界の歴史が違うだけでない。分断を抱えた国の、現代史そのものが違っている。一昨年のノーベル文学賞作家、ハン・ガンさんが小説『少年が来る』『別れを告げない』で書いたように、苛烈で悲惨な歴史を経験してきている。死者が生きているものを励まし、育てる。そんな世界である。日本の映画人はいったいどんな時代に生き、どのような精神を形作ってきたのか、思えばはなはだこころもとない。
「映画人葬」でぺ・チャンホ監督たちの弔辞の後、アン・ソンギさんの長男が挨拶した。こういう席だからいちいち通訳して囁いてもらうのも躊躇われたからその全部は分からない。ただ最後の方で嗚咽しながら途切れ途切れに語っていたところがあって、ここは憶えていてね、あとで教えて、とアテンドしてくれた彼に頼んだ。話はこうだった。
一月四日に久しぶりにアボジの部屋に入って、手紙を見つけた。幼稚園だったか学校からだったのか、宿題が出て、アボジの似顔絵を描いて、アボジから手紙をもらってきなさい、と言われたときのものだった。
「平和を守りなさい。自分のことだけではなく、他人のことを考えなさい。弟を守りなさい」。
アン・ソンギさんが七歳の息子に語った言葉である。
たくさんの人たちに見送られてアン・ソンギさんは明洞大聖堂から出棺した。私もその見送りの片隅に立てた。
小栗康平
