小栗康平 手記
芝居のよろこび
2025/04/13
先日、私と同じ歳の役者が主演しているというので、映画を見に行った。老いて、ある妄想が突き上げてくるという、その妄想の中身に関心があったわけではない。いったい八十に近い男の顔が映画でどう写るのか、それが知りたかったからだ。役者としての演技は可もなく不可もなくだったけれど、不満だったのは役者に色気がなかったことだ。人物の行儀が良すぎて感興が湧かない。老いて滲み出てくる人間の味わいのようなものがなくては美しくはないではないかと、私は家に帰ってトイレにある大きな鏡でつくづくと自分の顔を見た。映画での役者とさして変わっていなかった。こんなものなのかと、ひどく気持ちが重くなった。
そんなときにネットで妙なものを見つけた。妙なというのは、そうか、こういう組み合わせもあるのかと思ったからで、「作 山田太一 主演 笠智衆」でまとめた三本セットで、NHKのDVD‐BOXになっていた。
『ながらえば』『冬構え』『今朝の秋』が入っている。『ながらえば』と『冬構え』はシナリオで読んでいたけれど、『今朝の秋』は知らなかった。三作品とも放送で見ていない。普段から私はテレビでドラマというものをあまり見ないので、山田太一さんのドラマも大半は見逃したままだった。後で人に聞いてみたら、NHKオンデマンドなるもので今はいろいろ過去作品を見られるらしく、わざわざ高いお金を出してBOXを買わなくてもよかったらしい。でもこれはこれでいいか、と自分では納得している。
三作品は昭和57年から62年までの五年間に作られている。笠智衆さんが演じてくださることを前提にして、山田太一さんがお書きになったものだ。笠智衆さんは小津安二郎監督の『父ありき』で初めて主演に抜擢されたのが三十九歳の時、松竹蒲田撮影所の俳優の第一期生で、それまでは撮影所で大部屋と言われていた端役の一人に過ぎなかった。その『父ありき』で息子を演じたのが佐野周二さんで、こちらは松竹大船撮影所の第一期生の二枚目である。ひどく立派に見えるその息子が、笠さんの父を素直に思いやっている姿を見て、なにか不思議な気がしたのを覚えている。二人の年齢差はわずか八歳でしかなかったらしい。
以来、笠智衆さんが一貫して老け役を演じられてきたのはよく知られているところだ。その笠さんの七十九歳から八十四歳の仕事である。「老け」の役ではなく、実年齢と役の歳がいっしょになってのお仕事である。でありながら、あの飄々とされたお姿はなに一つ変わっていない。
『冬構え』の圭作は七十九歳、妻を亡くして独り身である。貯金をみなおろして東北へ一人旅に出ている。子供も孫もいるようだが老いて迷惑はかけたくないと、バックに入れた金を使い終わったら自死しようと考えている。台本の設定としては些か強引な感は否めない。それでも筋の運びをスムースに感じさせてしまうのは、セリフがいいからである。山田さんのお書きになるセリフのうまさがあってのことだ。テレビは放送で、前身はラジオである。ラジオは「聞くもの」だから、その基本となる性質は「画像」になっても大きくは変わらない。
それでも『冬構え』のシナリオにはセリフのないこんな場面もある。
ホテルの一室(和室)
圭作、へたりこみ、静かに泣いている。
ぽつんと、淋しい。
山田太一さんはそっけないほど簡潔に書いている。演出は深町幸男さん。笠さんは、台本に書かれてあるままに泣いていた。残酷だなあと、私は思ってしまった。芝居だから求められればやるのが仕事だとしても、一人の芝居で人生を背負って泣く、のは辛くないだろうか、そういう時が人生にあるとしても、そもそもそうした瞬間を画像にして見せていいものなのか、見ていいものか、残酷とはそういう意味である。
圭作が旅の途中で会社の同僚だった男の家を訪ねる。男は病院に入院していた。この男を小沢栄太郎さんがやっている。ベッドで寝たきりの芝居で、写っているのは上半身だけである。手が動く程度で起き上がるわけでもない。それでもその表情、声のトーン、間合いが落ち着ていて、芝居として深い。
「家内もね(と急に泣き声になる)」とト書きにはあるが、芝居ではしんみりしてはいなかった。「もう四年寝たきりで、この病院のあっちで、耄碌しちまっている」「様ァないよ。夫婦で病院で、死ぬのを待っている」
なかなかすんなりと書けるセリフではない。これを書いたとき山田さんは四十八歳。自身が老いてからでは書けなくなるセリフだろう。遅くまで病室にいてくれた圭作が、隠しごとをしていることに男は気づいていく。「そりゃあ、いかんよ」「そんなことはいかんよ」「いかんよ、あんた」。圭作は「そういう、決まり文句は、いわんでくれ」「いわんでくれ」と返す。
台本を読んでさほどこころ動かされた覚えはない。それが見事な場面になっていた。小沢栄太郎さん、撮影当時七十九歳だった。
ラストにもう一人いい老人が出てくる。藤原釜足さんである。このドラマが遺作になってしまった人だ。
圭作は金の使い方が分からずに、部屋に付いた若い仲居さんに法外なチップをはずむ。その娘は同じホテルの調理場で働く青年と店を持つことを夢見ている。圭作は別れしなに百五十万円もの大金を、タクシーの中からぽいっとその二人に投げて渡してしまう。どう考えても尋常ではない。青年はお金のことではなくて、あんたのことが心配なんだ、と後を追って、祖父の住む農家に圭作を連れて行く。そのおじいちゃんが藤原釜足さん。若い俺には言えないから、じいちゃんから言ってくれ、「人間、生きているのが一番だ、とかいうて欲しいだ」と。
ラストシーンはその藤原釜足さんと笠智衆さんのお二人の場面。これが洒落ている。
「わしには、生きとるのが一番だのって、そしたことはいえね(淡々という)」
「‐‐」
若い二人が海辺ではしゃいでいるシーンが挟まる。
「しかし、死ぬのも‐‐」
「うん?(と見る)」
「なかなか容易じゃあのうで」
「うんだ」
そしてドラマはこんなセリフで終わる。
「少し、ここさいてみねえがして」
「(目を伏せて)はい(と考える)」
「こう見えても、気心、知れてくれば、結構しゃべるだ」
「そうですか」 二人、笑い合う。
その老いた男二人の、はにかんだ笑顔が忘れ難い。色気がある。役者の力だ。見ていて芝居のよろこびがある。
歳のいった役者さんたちの芝居がいいのは何故だろうか。諦念のようなものが根底にある、と思ってみる。よく見せようなどという、エゴや自我が剝き出しになることはない。だから芝居で心理を追うなどというケチな考えも働かないし、余分に動いて目立とうなどとすることもない。結果として、その人の人格のようなものが輪郭を見せて、なにか遠いものと向き合っていることが感じさせられる。
『ながらえば』でもう一人いい役者が出ている。宇野重吉さんである。
この作品は、老いた妻を名古屋の病院に残して富山に引っ越していく岡崎隆吉の右往左往を描いたものだ。引っ越し前に病院を見舞ったとき、老妻は検査で病室を留守にしていた。もうちょっとだけ待てば、と言う息子の意見も聞かずに富山への特急電車の中にいる。ドラマの冒頭はその名古屋駅の描写から始まる。山田さんの台本の指定通りに、短く「現実」そのままが寸描される。その情景に情感はない。通り一遍の日常としての断片描写である。
息子たち夫婦といっしょに富山の新しい居に移ったものの、なぜ妻に会ってこなかったのか、もうこのまま一生会うこともなくなってしまうのではないかと、幾分、耄碌を抱えながらも焦りだす。引っ越ししてきて、三日もしないうちにまた名古屋に行くので金をくれと言ってもそうはいかない。隆吉はわずかな金で途中駅までの切符を買って出奔してしまう。でも急行券を買っていないので山間の小さな駅で降ろされてしまい、二時間待って次の普通列車に乗ってください、となる。
隆吉はそこで途中下車はしたけれど、ようやく来た普通列車に乗ろうとしたら、切符が見つからない。目の前で乗るべき列車を逃してしまい、やむなく駅前近くの旅館に宿をとる。
その宿で、宿の主の妻が死ぬ。亡くなるのは名古屋の病妻ではない。ここが上手い。お悔やみを一言、といって仮の通夜に隆吉がお付き合いすることになる。この主人が宇野重吉さんである。お金を持っていないことを告白して、古くなって時間も正確ではなくなってしまっている腕時計を笠さんが宇野さんに差し出してお金を無心する。事情を知った宇野さんの主人は「貸しましょう、お金、貸しましょう」と言って笠さんを思いやる。気持ちが通ったいいシーンになっていた。
笠智衆さんは小津さんあっての人だ。育てられたと言うよりは、小津さんによって生み出された俳優である。「俳優」をここでは「わざおぎ」と読みたくなる。「わざおぎ」とは、日本の芸能の起源に触れる言葉で、身振りや動作によって神を招く意、と辞書などにはある。小津映画で言えば、小津さんの聖なる時空間でカミを招く人が笠智衆さんということになるだろうか。
一方で小沢さん、宇野さんは新劇の出で、俳優座、劇団民芸の雄だった方たちだ。戦前にはお二人とも治安維持法違反で逮捕、収監されてもいる。「新劇」はその後、小劇場の時代にとってかわられながら、役者たちは映画、テレビに活躍の舞台を移していく。藤原さんは新劇ではなく、軽演劇と言われていたところの出身で、早くから専属の映画俳優と言うものになった草分けでもある。いずれにしても笠さんとはおよそ出自が違うし、芝居の質も異なる。そういう人たちが揃いもそろって、演劇で磨いてきた芝居の蓄えを、惜しげもなく、明るい茶の間のテレビに引き継いでいたのである。時代の変わり目、ではあった。
『今朝の秋』も他の二作品とまったく同様に、死にゆくものを巡ってのドラマである。考えてみればこれも凄いことだ。暗闇の中で一人ひとりがスクリーンと対峙することを基本とした映画でも、ここまでシリアスなものは続けられない。日常の中にあるテレビだからそれが出来る、としたら、なんという逆説だろうか。テレビはどんな受容のされ方をしているのか、なにがその逆説を可能とさせているのか。考えるとちょっと怖くもなる。
笠さんが演じるのは息子を看取る父親の話である。この息子を杉浦直樹さんが演じている。当時、役と同じ五十三歳だった。老人役ではないが、死を考えれば歳が幾つであろうと関係ない。この芝居が実にいい。息子の妻が倍賞美津子さん、ブティックを経営していて元気がいい。夫、つまり笠さんの息子との別れ話が進んでいる。木彫りで欄間を作る職人さんだった笠さんは、蓼科で一人暮らしをしている。女房は二十年も前に出て行っている。これを芸達者な杉村春子さんがやっている。道具立てとしてはみな揃っていて、そうした人たちが一斉に見舞いに来るのだから、息子も死の近いことを悟らざるを得ない。父親に「蓼科はいいでしょうね、行ってみたいなあ」とつぶやく。やりたいことをさせよう、笠さんはそう考える。二人して夜半に病院を脱出し、蓼科に帰り着く。今度はその二人を追ってみんなが蓼科に集まってくる。玉つきの「寄せ玉」に例えられる、ドラマの一つの定石である。
全員が一つ所に揃って、「疑似の家族団らん」になる。「あたしにもこんな家族があったのね、こういう感じ、本当に久しぶり」という「母」のセリフを受けて「息子」が突然、歌い出す。
忘れられないの
あの人が好きよ
青いシャツ着てた
海を見てたわ
お父さん、お母さんが出て行ったあと、酔っ払ってよく歌っていた、と息子がいう。笠さんはこれ、よせ、と照れる。お母さんはもちろんそんなことは知らない。でも有名な歌だから、やがてみんなでこの歌の合唱になる。山田さんは、こういう日常の仮面を剥ぐような怖いことを時々なさる。それを武満徹さんの音楽が一気に引き取って、ドラマは幕を閉じる。
こうした場面を今、自分は撮れるだろうかと考えるとはなはだ心許ない。子供のころ、「これ、嘘っこ」といって遊んだことがある。これは真似事で、本気じゃないから、そう宣言して、だから弾けて遊べた記憶。演じる者にもそれを見る者にも、これに近い芝居のよろこびはある。私はその喜びを捨てて今日まで来てしまっている。
『死の棘』を終えて、芝居を撮るのはもういい、そう決めてしまったのだ。『死の棘』は、ギリギリと締め上げていく音が聞こえるほどに、個と個とが向かい合った映画だった。小説家の言う自我とはなんですかと、トシオはミホから否定され続けた。撮り終えて気がついたら、私自身も這い上がれない蟻地獄の中でもがいていた。
西洋近代が生んだ映画なるものは、いつもフレームの中心に人間を置いた。それが窮屈になった。自身で持っていたかもしれない自然観、人間観はもっと広いところで生き生きとしているのではないか、映画のこの狭いフレームで囲ってはいけない、そう思って次作が『眠る男』になった。それからの方法が充分だったなどとは決して思えなかったけれど、戻れなかった。
久しぶりにテレビドラマを見て、その寄ったサイズで、芝居のよろこびに気づかされるのもなんとも皮肉なことだ。でも手がないわけではない。老人たちの芝居を見て、そう思った。
この文章を書いている途中に、篠田正浩さんの訃報を新聞社から知らされた。山田さんは二、三年遅れて松竹大船撮影所で篠田さんといっしょになっている。山田さんは木下恵介さんに可愛がられて、その木下さんがテレビで「木下劇場」なるものをやることになり、それを機に山田さんも松竹を出られた。以来、テレビが主な仕事の舞台になった。
篠田さんの追悼文を朝日新聞に寄稿した。以下にそれを転載します。
篠田正浩監督・追悼
「もう私の映画のお客さんはいません」と篠田正浩さんがお昼をごいっしょしたときにさらりと言った。それと同じ時だったか別だったかはっきりしていないけれど、「こんなにも途方に暮れた十年はなかった」と洩らされたこともある。『スパイゾルゲ』を最後にして映画を撮らなくなってからずっと後のことである。
途方に暮れるどころかじっさいには、映画を離れて『河原者ノススメ』『路上の義経』(共に幻戯書房)の二冊を上梓されている。日本の芸能史を掘り下げた読み応えのある論考だった。そうであるにせよなおと言っていいのかどうか、映画監督として在ろうとしてきたその身体が老いて思うに任せなくなってきたときの悲哀を、私はその篠田さんの言葉に思った。
訃報を知って、これで日本の映画は歴史と切れていく、通史としての姿が見えなくなって、この先はただ表層を漂っていくだけのことになるのではないか、とそんな感慨にとらわれた。篠田さんのような圧倒的な博識と深い教養に裏打ちされて、映画を日本文化の根底で考えようとする人はもういない。
篠田さんの映画は日本史を縦横に行き来してきた。そしてその都度、ご自分で理路整然と語られることが多かったから、いかにも迷いなくといった印象を持ちたくなるが、それは自分を「芸能者」と位置付けて語る一種の韜晦で、監督なる業の困難さは、隠されたままではなかったか。近代の映画表現とリアリズム、そこにまとわりついて離れないモダニズムと「芸能」との容易ならざる合一を、いつも夢見ておられた。
後に松竹大船撮影所に反旗を翻して作家のプロダクションを作った大島渚さん、吉田喜重さんたちと一括りされて、篠田さんも「松竹ヌーベルバーグ」と呼ばれたりしていたけれど、篠田さんはどんなエコールにも属さなかったと思う。明るいニヒリストとでも言いたくなる、独特な単独者だった。
私は『心中天網島』でカチンコを打ち『卑弥呼』でスクリプターやらせていただいた。日本アート・シアター・ギルド(ATG)の一千万円映画と言われるもので、相当に厳しい現場だったが、この二作品を経験することで私には助監督として怖いものがなくなり、篠田さんから離れた。篠田さんはそういう私を「(篠田組から)家出した不良息子」と呼んで可愛がってくださった。師匠筋の浦山桐郎さんが亡くなって以降、私には篠田さんが同業の監督として打ち解けて話の出来るただ一人の人だった。
私の『眠る男』を見て「『南の女』が森に入ってニホンカモシカと対面する場面では総身に震えがきました。そしてその直後、大きな木が倒れてきたときには完全に打ちのめされました。」とお手紙をくださった。『FОUJITA』では、カメラポジションについて書いてきてくださり、被写体に少しでも近づくと「美術映画」や「伝記映画」あるいは歴史に吸引されてしまう危機に堪えた「貴兄の<位置>は、小津以後の革命的な映画の作法ではないか、と考えています」とあった。誰もこんなことを言ってくれた人はいない。
篠田さん、満州事変の年に生まれた篠田さんが十四歳の時に見た敗戦の光景と、日本映画の今の惨状は重なって見えてはいませんでしたか。『平家物語』で二位尼が八歳の安徳天皇を抱いて「浪の下にも都の候ぞ」と海に沈んでいく場面を大好きだと『日本語の語法で撮りたい』(NHKブックス)の中で書いていましたね。篠田さん、海の底にも映画の「宮」はありましたか。淋しいです。
小栗康平