小栗康平 手記

映画の、見つめ

2024/04/27

日本で初めて公開された監督作品を二本、渋谷の映画館で続けて見た。「ゴースト・トロピック」と「Here」。ベルギーの監督で名前はバス・ドゥヴォス。一九八三生まれとあったから、四十歳あたりで撮った映画である。
映画は買う人がいてそれをかけてくれる劇場があれば、短時間で国境を越えて流通する特異なメディアである。もちろん経済はいつもついて回るが。映画祭で間違えて見るつもりではなかった別な映画に入ってしまい、それが気に入ってドゥヴォス監督の作品を追いかけたと、配給した人がパンフレットに書いていた。こういう「発見」が映画祭で起きる。映画祭は賞を出して顕彰することが「顔」にはなっているけれど、マーケットとしての商習慣の場であることの方が実情には近い。
見て二カ月になるが心地よさは今も残っている。闘ったり争ったりしない映画を久しぶりに見たと思えたからである。
「ゴースト・トロピック」は清掃員として働くアラブ系の年配女性が、終電で降りる駅を乗り過ごしてしまい、深夜、家に帰りつくまでの話である。プロットを「運び」という意味合いで私たちは使っているけれど、ここではただ家に帰るまでのことだけだから、ことさらに劇として「運んでいかなくてはならない」ものはない。映画の人物と一緒にただ歩いている、そんな感覚に捉えられる。ひやひやしたりドキドキしたりしなくてもいいのだ。
「Here」も同じである。こちらもブリュッセルの工事現場で働くルーマニア人が主人公で、青年が長めの休暇をもらって家を空けることになる。冷蔵庫に野菜が残っている。無駄にしないようにとそれでスープを作り知り合いに配って歩く。届け物といった程度のものでもないけれど、そのことで人物が移動し、映画を見る私たちに人物の関係性がゆっくりと解きほぐされていく。友人たち、姉、苔の研究をしている大学の女先生、語り口が穏やかでいい。シナリオが上手いのだ。
もちろん両作品に小さな出来事はそれぞれにあるけれど、その、劇としての要素を深追いはしない。「劇は劇になりたがる」と言っていたのは、亡くなった太田省吾さんだったが、その太田さんが『劇の希望』(筑摩書房)で「<表現>はフィクションを構える。フィクションとは、受動が力である世界の構築である。フィクションはだから、能動の力を拒みうるのであり、現実世界からの隔たりをもちうるのではないだろうか」と書いている。能動の力を拒むとは、直接的な有用性から離れることだ。作品に固有の受動が感じられるようになったときに、表現が立ち現れる、逆に言えばそうなるかもしれない。
見ることは、「私」がいる、在ることの受け止めだから、映画は原理として受動である。ただ厄介なことに、映画は演劇よりも私たちが暮らす現実世界と近似のものとして見誤るから、受動の深さを受けとめきれないことがしばしばだ。人や世界はどう「在る」のか、その見つめの眼差しの、寄って来たるところが分からなくなる。分からなくなって、能動としての劇を求める。
「ゴースト・トロピック」は冒頭のシーンでアパートのリビングが映し出される。人物はいない。日差しが変化して暮れていく。「これが私に見えるもの」と詩の一節と思われる言葉がオフで聞こえてくる。監督の「見つめていく」意思の表示だろう。リビングはラストでまた映し出される。今度は夜が明けてまた仕事に行く時間になる。静かな見つめの慈しみがこの監督の表現としての受動、なのだろう。
ただ、画像が人物に寄りすぎていはしないかと気にはなった。カメラが人物に寄れば体温は上がって感じられるけれど、見えている視野が狭まってしまう分、映像そのものがもつ喚起力に欠けることになり易い。難しいところである。
ベルギーという国の特異な事情があっての映画かもしれない。小国で人口も少ないけれど、首都ブリュッセルにはEUの主要機関が集まっている。多民族、多言語が交わる連邦立憲君主制王国で、分権化も進んでいるとのことだ。いつの数値なのか分からないけれど、外国生まれの居住者が六割というから、そこでの人と人との付き合い方がどんなものになるのか、私たちには想像すらしにくいことだ。

照明の津嘉山誠さんがこの人もベルギーですからと、シャンタル・アケルマンの「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」と「アンナの出会い」のDVDを持ってきてくれた。私は知らなかった。周りに聞いてみると、えっ、アケルマンを知らないのですか、と呆れられてしまった。
70年代に作られた映画だからヨーロッパの事情も今とはずいぶんと違っていただろう。アケルマン、二十代の作品で、恐ろしいほどの早熟である。女性監督だった。こちらも眼差しの映画だといえるかもしれないが、ドゥヴォスのそれとはおよそ違っていた。
長いタイトルの方は、近年、英国映画協会が「史上最高の映画100」で第一位に位置付けているらしい。ジェンダーへの関心が高まってのこととも聞く。もとよりこうしたランキングそのものが怪しいのだろうけれど、かつては小津さんの「東京物語」が、オーソン・ウェルズの「市民ケーン」がナンバーワンに選ばれていた。
その「コメルス河畔通り23番地」は、一人の主婦が住む所番地であろう。ハイスクールに行っている息子がいる。バスケットに入れられた隣人の赤ちゃんを短い時間、預かったりしているが、その一方で主婦は家で売春をしている。そのとんでもない乖離を、引き裂かれているというふうにも感じさせないで、カメラを動かさず、いくつかの視点に限って、定点観測のようにして撮っている。説明は一切ない。延々と日常が繰り返されて、映画は3時間を超える。さすがに長い。
ラストで売春の現場が写される。主婦はそこで初めてオルガスムスを感じてしまうのだ。行為の後、彼女は立ち上がって客の男の腹をハサミで刺して、殺す。映画の内容を私はなにも聞かされないで見ていたのだけれど、そういうものかと驚きもなく、その場面を見た。話の筋を追うような気配は最初からなかったからだ。
「アンナの出会い」は女性の映画監督が自作のキャンペーンでドイツの都市へ行く。主人公の設定としては成功者である。しかし劇中のこの女性監督の、どこを見てなにを考えているのかが分からないような、この世にはいないかの如くに感じられる虚無感は、なんとも独特だった。女優の表情もよかった。
見知らぬ男をホテルに連れてきてベッドを共にしはするものの、突然、服を着て出て行って、と言い放ったりする。列車でパリに戻る途中、ブリュッセルで降りて、深夜の駅で母と会うけれど、家には行かない。ホテルであれこれと母に話す。イタリアで女の子とセックスをした話も入ってくる。パリに戻っても待っていた男と上手くいくふうでもない。自分の部屋に戻って、ベッドで留守番電話の録音を聞いているのがラストシーンである。いろいろなメッセージの中に、女の声でどこにいるの、と聞こえる。
こんな映画を撮っていては死んでしまうのではないかと思いながら、アケルマンの経歴を辿ってみたら、自死していた。でも若くしてではなく、母が亡くなった後でのことで、六十五歳になっていた。シャンタル・アケルマンの母方の祖父母がアウシュビッツで殺されていて、母はそこでの数少ない親戚の生還者だった。Wikipediaで知った。
ネットでシャンタル・アケルマン特集が配信されていたので何本かを見た。「アンナの出会い」と同時期に撮られている「家からの手紙」というドキュメンタリーが良かった。十代で単身アメリカに渡ったころのこととして描かれている。
早朝に車が動き始める街の描写から始まって、ニューヨークの無機質な市街、地下鉄などが写されて、街のノイズに交じって、娘を思う母からの手紙が何度となく語られる。切々としたその手紙を読んでいるのはシャルタン自身だろう。シャルタンがどんな返事を出していたのかは分からない。母の手紙から間接的に聞かされるだけだ。
カメラを据えっぱなしにして地下鉄の車内から窓外を撮ったショット。車両が暗闇に入れば窓に映りが生じ、また駅に着く。それがワンショットのままで繰り返される。あるいは駅のホームの長いフィックス画像。左右から電車が入り出て行く。ホームをふさいでいた電車がなくなると、人がいて、カメラはただ黙ってその姿態を見ているだけだ。
普通だったらやらない望遠レンズでの長い横移動、ときに俯瞰気味に撮られる遠近を圧縮したショットの怖くなるような感覚、ラストはハドソン川から離れていく船上からの撮影で、マンハッタンのビル群が霧に包まれるように遠景になってぼやけていく。シャルタンはどこにいるのか。自身は写らないが、至る所にいる。見えている距離が、それを指し示している。立派に映画である。
初期の映画のスタイルから考えると意外な気がするが、その後の何十年間で、様々なジャンルの商業的な映画も撮っていた。多作だった。テレビもやっていたかもしれない。ミュージカル仕立てのコメディは群像恋愛劇、そんなものがあるのかどうかわからないが、オシャレで楽しいのに、誰もがどこかで破綻している人たちである。
「アメリカン・ストーリーズ/食事・家族・哲学」は、アメリカに渡ったユダヤ人のポートレートふうな告白を、語られる中身は痛切なのに、ナンセンス喜劇のごとくに虚実ないまぜにして綴った不思議な一篇。
この人はなにを撮るにしても、芝居をまともに組み立てようとすることなど端から興味がなかったのではないか。リアリズムのもととなる暮らしの現実性を忌避している。アケルマンはこの世に「私」がいる、「私」が在ることを、自明のこととしては受け入れてない。そんなことでは映画は撮れないはずだが、だからこそ、いつも距離を測りかねて、注視する。見つめを持続する。冷厳である。
ユダヤ人としての苛烈な歴史がそうさせるのか。ジェンダーの視点がそうなさしめるのか。
ドゥヴォスの静かな見つめは希望だったけれど、アケルマンの「投げやり」ともとられかねない大胆な見つめの手法は、虚無から、深い絶望から、眼差されている。見つめの眼差しは断然こちらの方が強い。残念だけれど、そういうものなのだろう。
でもそこで終わってはいけない。受動のよろこびを更に深めていくにはどうしたらいいのか。

【事務局より訂正とお詫び(2024/04/29)】
文中の映画監督の名前に誤りがございました。
ベルギーの女性監督シャルタン・アケルマンは、正しくはシャンタル・アケルマンでした。
訂正してお詫び申し上げます。

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