小栗康平 手記

針穴

2025/03/03

佐伯剛さんの初めての写真展「かんながらの道」でトークに呼ばれて行って来た。二週間ほど前のことで、写真展は盛況のうちに終わったようだった。写真はすべて「針穴写真」である。折角だからこの手記で触れておこうと思っていたら、佐伯さんのブログに「かんながらの道と、小栗康平監督の映画」なる文章がすでに載っていた。佐伯さんはこうかなと思いついたら、どんな時でもやりかけていたことをやめて、一気に書いてしまうのだそうである。ブログの更新はなんと1500回を超えている。私などは遅いもいいところで、〇が二つは少ない。「二十歳の頃より小栗さんの薫陶を受け続けた一人として、身の程知らずかもしれないけれど、その魂のリレーを担う一人になりたいと思うのです。」などと書かれたうれしい一文もあった。私の『埋もれ木』の終わるのを待って、『風の旅人』に誘ってくださり、前田英樹さん、鬼海弘雄さんたちと出会わせていただき、大事なお付き合いにさせてもらえてきたのも、佐伯さんのおかげである。お礼を言わなければならないのは私の方である。以下のアドレスで佐伯さんの文章を読める。

https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2025/02/11/171553

小学生のときにピンホールカメラのような実験をした。図工の時間だったか、理科の時間だったか。その時の感光材はどうしたのか、そもそも写真にまではしていなかったのか、よく覚えていない。私にはほとんど「糸電話」と同じレベルで、日向ぼっこをしているような、遠い記憶である。
佐伯さんは自ら「写真家」とは名乗らない。鬼海さんから頂いたと言っていた立派な写真機もお持ちだが、写真として発表しているのはこの「針穴写真」だけである。「ピンホール」が横文字だからなのか、ちょっとオシャレに感じられなくもない。「針穴」の方がなにやら凄そうに思えて、いい。
佐伯さんは日本の古層を訪ねる旅をして来ている。お手製の「針穴写真機」で、各地の遺跡や古墳、磐座(いわくら)、神社などの霊場を撮ってきた。そうしたところを撮るにはこの「原始的な」写真機が丁度良かったのかもしれない。年に一冊ずつまとめて今年で五冊になった。その記念の写真展である。
針穴写真の仕組みは佐伯さんが書かれているからそちらを見てもらえればいいのだけれど、要は、光を屈折させて一点に集めたり発散させたりする「レンズ」なるものを用いず、針で開けた〇・二ミリの穴を通して光を入れているだけだ。その僅かな光が入射した角度のまま直進して交差し、逆さに像を形作る。その日、その場所で天候は異なるだろうし、光の届き具合も変わってくる。露光時間はそれまでの経験と、あとは勘である。一分とか二分とか、長い。シャッターの機能はない。もちろんファインダーもないから、直接覗くことはできない。フレームはこうだろうかと予測してカメラを置く。ずいぶんと集中力が必要だろう。三脚でしっかりと「針穴写真機」を固定したら、あとは光を迎え入れるようにして、待つ。
その間に、雲間で光が揺れる。風もそよぐ。木々も木漏れ日も、千変万化して様々なニュアンスを万物に落とす。だからどの写真にも、なにか「もやっとした」感じが付きまとっている。それがいい。像を結ぶ、一歩手前の感じ、佐伯さんはそう言っていた。見ようによってはピントが甘い、と受けとめられるかもしれない。しかし逆に、そここそが考え方の違いなのだと私などは思う。

映画の撮影ではフォーカスマンと言われる専門の撮影助手がつく。人物のアップを撮るときなどであれば、カメラから伸ばした巻き尺のスケールを俳優さんの眼もとに持っていって、正確にフィート数を出す。専門的に言えば、レンズによって「被写界深度」が違ってくるので、女優さんの顔をきれいに取ろうとすれば「被写界深度」の浅い望遠目のレンズを使う。目の位置と頬や鼻とでもレンズからの距離は微妙に違うので、その誤差がボケを作ってなにやら美しく見える。私はやらないけれど。
普通は、なににフォーカスを合わせているかと言えば、事物に、と言っていいかもしれない。ところが佐伯さんの「針穴写真」はそっちではない。「時間」を撮っていると感じられるのだ。もちろん写真だから構図もあり「空間」が捉えられるのだけれど、主眼は「時間」の方だ。佐伯さんが「日本の古層」として捉えようと試み、ときに「もののあわれ」と言ったり「かんながらの道」と言ったりしてきたものがそれで、日本の時間の感覚と言っていいかもしれない。日本人の時間は、積み重なり、循環し、めぐり続けている。時間を断ち切らない。日本の自然観の根底にある考え方だ。

シャッタースピードを二百五十分の一(秒)とか六十分の一とかで撮る写真は、切り取る、感覚に近いかもしれない。映画でも撮影をSHООT(シュート)といったり、一つひとつの画像をショット、と言ったりする。撮るとは、獲る、でもある。ずいぶん昔のことになるけれど、パリの映画博物館で見た最初期の映画用カメラの原型は、まさしく銃の形をしていて驚いたものだ。
針穴写真の独特な雰囲気は、見ることがただ単純に被写体との「対応」ではないことを気づかせてくれる。考えてみれば当然のことで、私たちは身の危険でも迫らない限り、そうそうものごとをくっきりとは見ていない。そんな疲れてしまうようなことはやってはいないのだ。ほどほどに、ぼんやりと、わが身がなにごとかに包まれてある充足の方を私たちは生きている。気配とか、はっきりとはしないけれど、確実に感じられるものの方が、見えて在る表象よりも深いのかもしれない。
今回はカラーでプリントされたものも多かった。針穴で色が撮れる、とちょっと不思議な気がしたけれど、感光材の問題だけのことで、CCDでも針穴写真は可能らしい。ただその色も、発色しているという感じではなく、色をそこにのせている、といったふうに感じ取れる。写真が誕生する以前の絵に、写真が再び(?)戻ったかのようでもある。
古いものだけでなく、都市に目を向けた写真も面白かった。京都の二寧坂、八坂の塔が奥に見える坂道に、たぶん人が行き来しているらしいのだが、露光が長いので、姿としては写らない。まるで霊のごとくシルエットが揺らめいている。ただ、都市でのそれらの霊は厳かな有難い霊ではなく、「幽霊」の霊に近いかもしれない。池袋の雑踏も新宿の安い飲み屋街で飲む人たちの群れも、みな幽霊で人として写らないとなると、面白いと言うか、怖い話でもある。
ワンカット撮るのに何分もかかる「針穴写真機」ではそもそも映画は撮れないだろうけれど、人の姿や顔を撮るのではなければ可能なのか、などとひねくれた考えも浮かんだりした。ハマスホイの絵のように、人がたたずむ後姿だけであれば「動かないで」とも言えるし、目線は交わらない。だったら安手のドラマは起きようもない。そんなあらぬことを考えながら帰りの電車に乗ったら、車内の広告は人の顔ばかりだった。見たくないなあ、が実感で、こんなことではさらに映画が撮れなくなる。

佐伯さんの写真展に前後して金井一郎さんの展示会を見た。私は金井さんを存じ上げていなかったのだけれど、吉祥寺の市立美術館で比較的大きな金井一郎展があって、それを見た知り合いの俳優さんが、透明でひんやりした感じがして私の映画のようだった、と教えてくれたのだ。でも知ったのが最終日で、見に行けなかった。その後、西銀座と池尻大橋の小さなギャラリーで相次いで金井さんの催しがあった。
『宮澤賢治・作 金井一郎・絵 銀河鉄道の夜』がmikiHОUSEから出版されていることをそこで知った。初版は2013年で2023年に第六刷が出ている。「十代の終わりごろから影絵の制作を始め、その後『翳り絵』の手法を見出し、五十年近くにわたって作り続け」てこられたと、その本の奥付にあった。金井さんは私とほぼ同じ歳である。ライフワークとはまさしくこうしたことを言うのであろう。不思議なのは、こちらも「針穴」だったことである。さらに展示会の照明が佐伯さんも金井さんもともに暗いことも共通していた。

「翳り絵」とは、黒のラシャ紙に針で孔をあけて、その紙は一枚ではなく基本は二枚、キャンバスの枠を使って止めて、その間にアクリルの板を挿んで、層を作る。後ろから光を当てて、その透過光が表面に貼られたパラフィン紙に、散る。光点が滲む。ベースになっているのは黒で、わずかな光がものごとの輪郭を作り出す。それがとても美しい。てかてかと光を当てるような世界ではまったくない。
佐伯さんの針穴写真と同様に、こちらも映画向きの手法では全然ないのだけれど、明るいだけの今の世の中で見落としていることを教えられた気になった。
池尻大橋での展示は「翳り絵」ではなく、簡素な舞台美術のような街や家、その一角が小さなサイズで作られていて、そこにさらに小さな電柱の明かり、電灯がぽつんと灯っているものだった。独特な小世界である。
金井さんが四十代半ばのまだ若いころの、「翳り絵」を制作している姿を撮ったDVDも見せていただいた。すべては時間のかかる手作業で、何本か束ねた針をトン、トン、トンとひたすら打ち続けていた。その音が今も私の耳に残っている。
針穴は湿度の変化に微妙に反応してしまうものらしい。塞がりはしないけれど、なかなか針穴の大きさが安定してくれないのだと金井さんから聞いた。
『銀河鉄道の夜』だけで「翳り絵」は百点近くあるらしい。いつかこれを画像にして残せないものかとも思う。4Kで光源を変化させながら撮ったら、新たな動きまでもが感じられるようになるかもしれない。
展示会の後で食事になった。同行した津嘉山誠さんが一席設けてくれたのだ。金井さんからお土産にカラスウリのランプを頂いた。カラスウリの実をくりぬいて乾燥させ、それを小さなライトに被せる。賢治が『銀河鉄道の夜』で書いた烏瓜流しの、烏瓜のあかりはこんなふうなものだったのだろうか。暗闇で点灯すると、薄赤い別世界が生まれてくる。

小栗康平

訂正とこころからのお詫び

2025/01/21

李恢成さんの著書を読み返えしてみようと書棚を漁っていたら、派手な装丁の本に目が留まった。大きな文字が表紙一杯に書かれている。「金石範 なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 金時鐘」とあって、その全体がこの書籍のタイトルになっている。済州島の四・三事件をめぐってお二人が対話されたものだ。ハン・ガンさんの『別れを告げない』を読んだこともあってそっちに手が出て、ページをパラパラとめくった。
何ページも進まないうちに「木浦?」とつぶやいて手が止まった。その瞬間、私の体から血の気が引いていくのが分かった。大きな間違いを犯していたことに気が付いたのだ。
前々回のこの手記「歴史の死を生きる」の文中で、私は「詩人のキム・シジョン(金時鐘)さんは、アボジが手配してくれた密航船で木浦から渡ってきている。」と書いている。済州島から出ることこそが問題なのに、なにを取り違えて陸地(朝鮮半島)の西海岸の港町、木浦が出てきたのか。およそ関連がない。ひとの生死を賭したいきさつを、間違えました、だけではすまされないが、伏して訂正します。

『金石範 なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 金時鐘』(~済州島四・三事件の 記憶と文学)は、二〇〇一年に平凡社から出ている本である。
大著『火山島』を書きつづけてきた金石範さんと、四・三蜂起の当事者でこれまでその事件については沈黙を守ってきた金時鐘さん、私は存じ上げていないのだけれど、在日の政治学者、文京洙(ムン・ギョンス)さんがそのお二人の間に入って司会をされている。文さんが適宜に歴史的な解説を挿んでくれていて、アメリカとソ連の大国の思惑に振り回された当時の政治的背景がよく分かるようになっている。金石範さんは両親のお生まれが済州島で四・三は直接には知らない。石範さんに促されて金時鐘さんが蜂起の実際について初めて口を開いていく。済州島沖合の無人島に先ず出て、と言った日本への密航の詳細もそこで語られている。歴史資料としても貴重な本である。
編集部の関正則さんという方が「本書にかかわった唯一の日本人として」と題して編集後記を書いている。この文章もいい。作りとして、とてもフェアな本である。私は読んでいるはずだが、忘れていたのか。そもそも忘れられることなのか。ほぼ意識が飛んでいる。

歳がいって物忘れをする、探し物が多くなる、ようになってきた。昨年だったが、一人で高速道路のパーキングエリアに寄ったときにipadを開き、なんとそれをそのままテーブルに置いて出てきてしまったことがある。しばらく走行して、あっと気が付いたのだが、高速である。次のインターチェンジで降りて入り直したのだけれど、パーキングエリアは反対車線である。また何十キロも走ってようやく同じパーキングエリアに戻った。この間の小一時間、私の頭の中は空っぽになっていた。
忘れるのは仕方がないが、間違えて別なものに結び付けてはいけない。恥ずかしい。金時鐘さん、すいません、お許しください。

小栗康平

哀悼

2025/01/20

朝九時ちょうどに携帯が鳴った。知らない番号だったのでそのままにしていたら、留守番電話に音声が残った。開いてみると、李恢成さんの次男からだった。父が一昨日の午後、病院で亡くなりました。今日、家族葬で小さく、火葬場へ行きます、とあった。私は直ぐに折り返した。その日、私はたまたま東京にいた。どこへいけばいいかと尋ねると、私たちだけやりますので、と。出棺前にとにかく連絡だけはしようと電話をかけてくれたことが感じ取れたので、お別れに行けるようになったら教えてと言ってそのまま私は電話を切った。
それから十日間経った一月十五日、新聞で[李恢成さん死去]が報じられた。お別れの会のようなことはまだ書いてなかった。
連絡が次男からだったことには理由がある。李さんに息子が三人いる。長男は私の映画で二本、助監督についているけれど、『FОUJITA』の後、地方局のディレクターとして九州の方に行っている。アボジの近くにいるのは次男だけだ。
何年前になるだろうか、三年か四年かもっと前か、長くご無沙汰してしまっていたので、思い立って李さんに電話を入れてみた。奥さんが出られて、「今、話せるかどうか分かりませんが聞いてみます」と言われてしばし待っていると「はい」と不機嫌そうな声が聞こえてきた。小栗です、ご無沙汰してしまって申し訳ありません、と話し始めると「どちらのオグリさんでしょうか」と遮られた。李さん特有のアイロニーだろうと思ったけれど、その後もうまく話が続かない。なんだか意思疎通を欠いたまま気まずく電話を切ることになってしまった。
李さんには『伽倻子のために』を映画にさせていただいただけではなく、その後も公私ともに深くおつき合いさせてもらってきたと思っていたから、どうしてそんなことになってしまったのか、あれこれ考えた。
しばらくしてからだったが、葉書でお尋ねした。なにか失礼なことを私はしてしまっていたでしょうか、と。返事はなかった。
次男にどうなっているのか教えてほしいと連絡をとった。「原稿で手一杯で余裕がなくなっているのだと思います、オモニも認知症が始まっていろいろ大変で、すいません」ということだった。次男としてはそう戻すのが精一杯だったに違いない。
その“手一杯の原稿”は、おそらく二十年にわたって書き継いできている長編『地上生活者』で、第六部まですでに単行本になっている。出るたびに李さんは送ってきてくださる。しかし私にはこの小説が好きになれなかった。でも正直にその感想は伝えらず、通りいっぺんの礼状で逃げていたかもしれなかった。李さんがお怒りになっていたのはここだろうか。だったらなにがよくないのかを書けばいいのに、それが私には出来なかった。大先輩だからというのは当然だとしても、問題はそこではない。

『伽倻子のために』の映画化で私は苦しんだ。小説で読めば、読者としての私は主人公のサンジユンの気持ちを追うことは出来る。しかし写せない。同じ日本語で書かれていても、この民族主体の異なる主人公に私はどんな根拠を持って向かい合おうとしているのか、いくら問いかけても答えが出てこなかった。
詩人の金時鐘さんは岩波ホールのパンフレットに、私のその手も足も出ない様を「日本人自身の哀しみの素顔」と題して書いて下さった。私が映画を撮ってもまだ分からなかったことを、そう表現して下さったのだ。その文章を読んだときのうれしさは今もはっきりと覚えている。
言葉は民族言語である。民族が異なれば言語が異なる。これが普通である。暮らしや文化、習俗とともに穏やかに育まれるものだろう。懐に抱かれるようにして。
しかしどの言葉を母語とするかは、その人の生まれや環境によって違ってくる。母語がかならずしも民族言語とは限らない。ましてそれが強いられてのことだったとしたら、事情は複雑にならざるを得ない。日帝時代の朝鮮半島がそうだったし、在日は在日で、在日することになるまでの経緯、生年など、幾つもの違いによってその日本語はそれぞれに入り組んで一様ではない。そこに私は簡単には踏み込めない。
ではこれが画像だったらどうだろうか。私は映画にも「映画言語」とも言うべきものがあると考えるから、その映画言語の獲得は、在日の「言葉」のように、繊細な違いを見せて折り曲がりもするのだろか。一般的には「いいえ」だろう。でもそうとも言い切れない。
かつて私は、「映画もまた民族言語である」と書いたことがある。映画はその誕生のときから、新しい世界語、世界に共通する言語である言われ続けてきた。そのことへの反発が私にはあった。その “世界”というのは、ヨーロッパ、アメリカのことを言っているだけではないか、と。この考えは今も大きくは変わっていない。民族言語というよりは、民族にさえ縛られない地方語としての世界性、と言ったほうがいいかもしれない。なぜなら映画の写すものはすべからく個別の事物だからである。誰しもがローカルであることで、繋がる。映画は「何が母語なのか?」を別な角度から問いかけていく機能がある、と言ってもいい。見ることで、私たちはこの世に「在る」ことを知る。見ることは一人ひとりひとりの眼によってなされるから「私」の行為であるけれど、その「私性」は、つねに慰撫されて何者かと繋がっている。

李恢成さんが、自死した金鶴泳を悼んで書いた「政治的な死」という短文が『可能性としての在日』(講談社文芸文庫)に収められている。
「在日二世作家としてのかれは、避けがたいものとして家庭を描き、なかんずく父との相克を取りあげた。だれだって、そうだ。かれのように、僕たち在日二世文学者は、家庭から出ていかねばならなかった。そこから人間の意味を探し、祖国に向き合っていく運命を共有していた。」
李さんも出発は私小説だった、と言っていいかもしれない。ただ、言われるところの日本の「私小説」とは違って、そこでの「私」は安定していない。内に閉じてもいない。「家庭」も「私」も政治に歴史に翻弄され続けて、否応もなく引き摺り回され、静まるときがないからだ。
李さんの初期の小説には、『またふたたびの道』『砧をうつ女』『伽倻子のために』も含めてそうだったが、その翻弄に堪えて、初々しいほどの抒情性があった。抒情とは、切なく痛く、ときに若干の甘さを併せ持つ。抒情は両刃の剣でもあるだろう。
『地上生活者』では、抒情と受け止められるような文面は慎重に避けられている。小説の主人公は、「ぼく愚哲(ウチョル)は」と書かれる。韜晦なのか戯画化なのか、通常の小説にあたる地の文と、「愚哲」のこころの声とが二重になりながら、ときに露悪的とも言えるような描写もそこに混じる。告白も含めて、これまでの李さんご自身とその周辺にあったこと、出会った人のいっさいが、洗いざらい白日の下に晒されていくかのようでもある。
私に問われているのは、私が手掛かりとしてきたかもしれない「日本の」「抒情」の質、なのだろうけれど、作家はここまで業を深めなくてはならないのかと、読んでいて辛くてならなかった。
次男によれば、病院に入ってもオモニに口述筆記をさせていたようだった。そのオモニも認知症が進み始めていると聞く。どれほどの恨を、悲憤を抱えて李さんは逝かれたのか。

私もそれなりの年齢になりました。あらためて映画の母語とはなにかを考えていきます。民族や国家、政治を超えて、求めず、ただ差し出すだけのような、静かな映画を撮れるように努力していきます。いずれまた話せる機会を作ってください。いっしょに温泉に入って頭に手拭いを乗せて笑い合ったこと、みんなで我が家の犬小屋を作ったこと、今は楽しかったことだけを思い出そうとしています。合掌。

小栗康平

事務局からのお知らせ

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2025年01月10日
『伽倻子のために』『眠る男』
4Kレストア版特集上映のお知らせ
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第35回東京学生映画祭、『泥の河』上映のお知らせ
2024年07月25日
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2024年04月06日
【速報】『伽倻子のために』『眠る男』4Kレストア版の劇場公開が決定!
2024年04月01日
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